メリメ「マテオ・ファルコネ」で読む、悲劇。ただの悲劇。
ーーー立派な人間は、どこまでも立派なのか?目の前に一万円札の束が積み上げられていても?どこまでも自分の心に従える人間なんてほとんどいないのではないか。そもそも立派って何なんだよ。。
みんな、ただ自分の欲望に突き動かされて行動するのだ。しかし、それは恥知らずな行為とされている。やってはいけないこととされている。なぜだろう?なぜ、少年は罰を受けなければならなかったのか?
プロスペル・メリメの「マテオ・ファルコネ」をお届けしますーーー
ヨーロッパのコルシカ島の南に、ポルトベッキョという街があり、その街の郊外にマキという地名の田舎村があった。
このマキは、コルシカ島の牧人たちと、裁判所と仲違いしたお尋ね者たちがたむろしているアブナい村であった。そこには、マテオ・ファルコネと呼ばれる男が、マキから2kmほど離れた郊外に家を建てており、そこで極めて裕福な暮らしをしていた。彼は数多くの羊を所有しており、貧乏な牧人共に羊たちをひかせるだけで、自分はその収入で余裕で食っていた。そして、近隣の住民やマキに住む人々に、きわめて尊敬されていた。
マテオ・ファルコネと女房の間には、まず立て続けに4人の娘が生まれた。マテオは不満たらたらであったが、数年前、生まれた5人目の子供は男の子であった。マテオは大喜びし、その子にフォルチュナートと名付けた。
で、そのフォルチュナートはちょうど今、のんびり日向に寝ころんで、青い山並みを眺めたり、数日まで彼と一緒にいた青い目をしたブロンドの少女のことを考えたりしていた。だが、彼の静かな楽しみの時間は、突如一発の銃声で中断されてしまった。見ると、足をひきずりながら一人の男がやってくるではないか。
この男は、ここでは珍しくもないようなお尋ね者の一人だった。夜中に街へ行って火薬を盗もうとしたのだが、途中で憲兵隊の伏兵に運悪く出くわしてしまい、鬼ごっこが始まった、というわけだった。
男は山男が被るような先のとがった頭巾で顔を隠していた。太ももに一弾受けているようだった。そして、あろうことにもマテオの家に向かう小道へと踵を返してきたのだった。
フォルチュナートはとっさに身構えた。男が近づいてきたからだ。
「あんたがマテオ・ファルコネの息子かい?」
「そうだよ。」
「わしはジャネット・ピエーロだ。いま憲兵に追われている。助けてくれよ。」
「だが、パパはなんていうだろう?おらが許可もなくあんたを隠したりしたら?」
「そりゃあ、よくやったって言うにきまってるさ」
「そうかな。」
「いいから早く隠しておくれよ。やつらがもうすぐそこにきているんだ。」
「パパが帰るまで待ってなよ。」
「待てだって?馬鹿なこと言うな。あと5分もすりゃ俺のひたいに風穴が開いちまうよ。さあ、早く俺をかくまえ。さもないと、お前を撃ち殺してやるぞ。」
ジャネットはやにわに銃を取り出した。
「あんたの銃は空っぽだい。それに、いまあんたが銃を撃ったら、あんたのことが大好きな憲兵隊にとっては嬉しい知らせになるだろうね。」
「どうかな?俺は短剣を持っている。」
「でも、おらほど速く走れるかな?」
少年はひらり、とジャネットから距離をとった。
「なんということだ!あんたはマテオ・ファルコネのせがれではないらしい!!せがれなら自分の家の前で俺を逮捕させるようなことはしないはずだもの。」
少年は感動するらしかった。
「代わりに何をくれるのかい?」
ジャネットは弾薬を買うためにしまっておいたらしい銀貨を取り出した。(おとなしくその金で火薬を買っておけばよかったものを。面白い男である。)
これを見るとフォルチュナートはにっこりと笑った。そしてその銀貨の束に飛びついた。
「安心しな。」
少年は家の近くにある干草の山に大きな穴を一つ掘り、ジャネットをその中にかくまった。少年は息をするための小さな穴は残したが、よもやその中に男が一匹隠れているとは思えないくらいしっかりと干草を埋めた。そして、驚くような気配りをみせた。
彼はその辺にいた野良猫とその子猫たちを連れてきて、その干草の上に載せた。これで、「この干草は数年前から動いていませんよ、いや全く」と言わんばかりの出来栄えであった。
数分後、憲兵隊が到着した。それはマキでは名の知れた、マテオ・ファルコネの遠い親戚であった。
「やあ、こんにちは。従兄弟の小坊主。たいそう大きくなったね!ところで、ここを男が一人通ったか、見かけなかったかい?」
「だって!おらああんたほどデカブツじゃないよ。従兄弟の大坊主。」
フォルチュナートはこう返した。
「じきに追いつくさ。で、あんた、ここを男が一人通ったかどうか見かけなかったかい?聞かせなよ?」
「そういや、今朝、司祭さまが馬のピエロにまたがって家の前を通られたっけ。パパは元気かと聞いてたよ。おら元気だと返事しといた。」
「このクソ坊主ごまかす気だな。ジャネットがどこへ行ったかどうか早く聞かせな!ワシらが捜してるのはあいつなんだ。ここを通ったっことはわかっているんだぞ。」
「どうしてわかるんだい?」
「ほら、その言い草。てめえ、かくまってやがるな。」
「知らないよ。おら眠ってたんだ。ここを通る人が見えるだろうかね?」
「鉄砲の音で貴様目を覚ましていただろう。」
「あんたの鉄砲の音がそんなにでっかいと思ってるのかい?パパのラッパ銃のほうがもっとでかいよ。」
「つべこべぬかすうるせえ餓鬼だ。あんたがジャネットを見かけたのはわかっているんだ。それどころか、あんたが隠したかもしれねえんだ。おい野郎ども、この家の中に入ってあいつが隠れてないか探してくれ。」
「パパはなんていうだろうか。自分の留守中に人が自分の家に入ったって知ったら。」
「うるせえガキめ!甘い顔してりゃいい気になりやがって。貴様を泣かせることなんぞわけもないさ。今すぐこのサーベルの刃で貴様の尻を二十発もぶったきゃ口を割るかもしれねえぜ。」
だがフォルチュナートは相変わらず嘲笑的だった。
「おらのパパはマテオ・ファルコネというんだぜ!」
「軍曹、マテオと仲違いはまずいですぜ。」憲兵隊の一人が言った。
兵の一人が干草の山に近づいた。彼は牝猫を見た。そして気のない様子で干草の内部に銃剣の一撃を与えた。何も動くものはなかった。少年の顔も、衝動の影一つ見せなかった。
「従兄弟の小坊主、よく聞きな。」彼が言った。「あんたはなかなか頭がいいな。大人になったら偉くなりそうだ。だがあんたは俺に意地の悪いいたずらを仕向けている。マテオに心配させる気遣いさえなけりゃ、あんたをしょっぴいていけるんだがなあ。」
「へっちゃらだい!」
「見てるがいいや。まあ、ちょっと聞きな・・・。この辺でいい子にならないか?いい物をやるぜ。」
「おらのほうからも、なあおい、従兄弟の大坊主、見てるがいいや。あんたがこれ以上ぐずぐずしていると、ジャネットがマキへ潜り込んじまうぜ。そうなったが最後、あんたみたいなのんきな奴はとても一人じゃ探しに行けなくなるだろうさ。」
軍曹はポケットから素晴らしく磨き上げられた銀時計を取り出した。
「この時計はどうだ?あんた、これを首から下げたくないか?で、ポルトベッキョの街を歩くんだ。クジャクみたいに気取ってな。」
少年はため息をついた。
時計を横目でにらむフォルチュナートは、鶏もも肉をまるごと見せつけられた猫に似ていた。猫はからかわれているという気がするので、爪を伸ばしてひっかくことはやりかねる。そして誘惑に陥る危険を避けるために、時々目をよそへ移す。そのくせ猫は始終舌なめずりをしている。
それにしても軍曹は本気だった。フォルチュナートは、はじめ手は出さなかった。
彼は次第に時計を少年に近づけた。哀れな少年の胸は大きく息づいた。そして今にも息詰まりそうに見えた。時計は相変わらず揺れていた。くるくる回っていた。文字盤は空色だった。磨きたての銀縁は火炎のように見えた。少年はじわじわと右手を時計に向けて伸ばしていった。そして、左手で干草のあたりを指さした・・・・
軍曹はたちまち理解した。彼は時計を彼の手の上に置くと、憲兵たちに命令して干草の山をくつがえさせた。
中から血まみれの男が出てきた。
「マテオの息子ともあろうものが、何てざまだ・・・」
ジャネットは怒りよりも、より多くの軽蔑を込めて言った。
少年はもはや自分はこれには値しないと感じたらしく、さっき受け取った銀貨の束を投げつけた。
そして、マテオ・ファルコネが現れた。彼の妻も一緒だった。
「こりゃいったいなんてざまなんだい?」
「やあ、マテオ。ずいぶんしばらくだったなあ。近所まで来たのであんたにあいさつに回ったんだよ。今日は長いこと駆けずり回った。だがたいした獲物がとれたよ。今さっき、ジャネット・サンピエーロが捕まったところだよ。」
「あらま。それはよかったわね。あいつは先週、うちの子ヤギをかっさらったところですよ。」
軍曹はこれを聞いて安心した。
「腹が減ってたんだ、かわいそうなやつさ。」マテオが言った。
「あの野郎上手に隠れやがって。悪魔にも見つかりそうもねえところだった。フォルチュナートがいてくれなかったら俺もあきらめるところだったぜ。」
「フォルチュナートだって!!」マテオは叫んだ。
「そうさ。あの小坊主が、あいつがあすこの干草の中に隠れてやがることを、ソっと俺に教えてくれたのさ。俺はこのことを上に報告するよ。あんたの息子は表彰を受けるだろうぜ。」
「とんでもない。」マテオは、不気味なほど小さな声でつぶやいた。
ジャネットは全身を縛り上げられ、もう出発するばかりになっていたが、マテオを見ると薄気味の悪い微笑を浮かべながら、彼の家に向かって唾を吐いた。
「けがらわしい!裏切り者の家だ。」
憲兵隊は彼を連れて去っていった。
奇妙な沈黙があった。少年は不安な眼差しで時には母を、時には父を、交互に見守った。彼の父は銃を杖に立ったまま、内なる怒りに耐えながら少年を見つめていた。
「お前は情けないことをしてくれたぞ。」
恐ろしい声だった。
「パパ!」
少年は父の膝下にひざまずくような恰好で飛び出した。
「寄るな!けがらわしい。」
母は、フォルチュナートと首から覗く銀の鎖に気づいていた。
「誰があんたにこんな時計をくれたの?」
「従兄の軍曹がくれたよ。」
マテオはその時計を奪い取ると、そこにあった石に向かって力任せに投げつけた。
「おっかあ、こいつはほんとに俺の子か?」
母の顔は真っ赤に染まった。
「何を言うのかね?マテオ?あんた誰に向かってモノを言ってるんだい?」
「なるほど、そうだとすると、こいつはこの家に生まれた裏切り者の恥さらしってことだな。」
少年はおびえた目で父を見上げた。
「お祈りを上げろ!」
父は恐ろしい声で叫んだ。
「アーメン!!」
銃声が一発、響き渡った。
神さまに許していただきな!!
母はいつまでも泣いていた。
マテオは、彼を埋葬するためのスコップを取りに家に向かって歩き出した。