文章の分かり易さ、分かりにくさ

私の家の近くには、古民家風のこじゃれたカフェーがある(カフェーと記載するのが良いと思われるような、昔の香りを感じさせる場所だ)。そこでイチゴパフェを食べながら、内田樹の『寝ながら学べる構造主義』を読んでいた。

文字通り、この本は「構造主義」と言われる考えかたの入門書である。入門書と言うだけあって、分かり易い言葉で書いてある。

思うのは、最近塾の生徒に解かせた現代文の文章である。「ナンセンス」について書かれていた文章だったが、先生として教えている私の立場から言うのもなんであるが、とても分かりにくい文章だった。

文章の分かり易さと、分かりにくさ、この違いはどこにあるのだろうか。


内田の本で取り扱っている「構造主義」とは、彼の言葉を借りるなら現代において既に常識になっているもので、私たちは学校やメディアや何気ない日常会話から、何度も触れている考え方の方法(又は枠組み)だそうだ。

 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。(内田樹[2019]『寝ながら学べる構造主義』(46刷)p.25)

言い換えれば、我々の所属している集団が意識的に又は無意識的に「良い」と判断している物を私たちは「良い」と思うし、「悪い」と判断しているものは「悪い」と感じるということである。そこには自分の判断は(ほぼ)無い。

ということは、しばしば見受けられる「世間が許さない」的な発想方法は、この「構造」が私たちの心と体の中にあるから発生すると言える。

で、この、「構造」を自覚的に認識してから世界を見てみましょうよ、というのが構造主義のスタンスなわけだ。

そして、この構造主義の始祖ともいえる人物が言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールである。

彼は、「ことばとは、『ものの名前』ではない」といった人物であるが、それは一つのものに対して必ずしも対応する一つの名前があるわけではないということである。

例えば、フランス語のムートンは生きている羊も、ジンギスカンで使われる羊肉のことも言うが、英語ではシープが生きている羊で、羊肉のことはマトンと言う。これはフランス語のムートンの方が意味の範囲が広く、英語のマトンはより意味が狭いことを示している。

また、中国語の「天」は単なる空の模様のことを言っているのではなく、もっと神的な世界を支配し、人に運命を強制するようなものとして理解されている。日本語にはこのような考え方は無い。

つまり、ものが言葉より先にあるのではなく、言葉によって物が一括りにされ、他のものごとと分断され、差異が生まれるのである。この、ものごとを区切る作用がそのものが言語活動であると言える。

定義とはそのまま「定めて意味を与える」ということであり、ものごとは定義づけられて初めてはっきりと認識されるのだ。

故に、言葉を知るということは、その言葉の持つ範囲を知ることであり、その指し示すイメージを知るということなのだろう。


はて、話を戻して、文章の分かり易さと分かりにくさの違いは何かとかんがえてみたい。

一点目は、見慣れない言葉を多いことだ。見慣れない言葉は、すなわちそれは、その言葉の持つ範囲やイメージを獲得していない可能性が高い。

いわゆる、単語が分からないから分からないというやつである。

二点目は、抽象的な言葉が多いことだ。抽象的な言葉は、広い意味範囲を持ち、かつそのイメージを獲得するのに少し時間がかかる。「犬」と言われれば、我々は「良く見るあの四足歩行で毛むくじゃらのあの動物」を絵として思い浮かべることができるが、「恣意的」とか言われたら、果たしてイメージが思いつくだろうか。「恣意的」は辞書では「主観的で自分勝手なさま」と書かれているが、果たして、この説明でジャイアンのように恣意的の具体的な人物イメージを結べることができるか?

よって、抽象的な言葉はその言葉の持つイメージを獲得していない者にとっては非常に難しい。英語と同じてある。

三点目は一点目と二点目が複合されて文章が作られていることである。良く分からん言葉で良く分からないことを説明されたら、そりゃよく分からない。しかも、そういった言葉を使って書かれる文章と言うのは、たいてい抽象的だ。抽象的という事は筆者の言っていることを自分でイメージして理解しなければならない。

これの最たる例は数式で書かれた文章ではないだろうか。数字・数式は大体が抽象概念で、それらが組み合わさって何かしらの意味を教えてくれるが、その意味を構成するそれぞれの部位が分からなければ、何を言っているのかさっぱりである。

逆に分かり易いのは、とても具体的に書かれた文章であろう。「目の前にリンゴが3つあり、そのうち2個食べて1個を冷蔵庫にしまった。」なんて文章はとても分かり易い。何が起こったか一目瞭然である。

結論を言えば、見えているものや五感で感知できるものは分かり易い。逆に見えないもの、五感で感知できないものは分かりにくい。それらは少なくとも一度人の頭で解釈されたイメージであるからだ。我々はそれを理解するためには一端他者の頭の中を覗かなければならない。

コミュニケーションとは、突き詰めると他者の頭の中を覗いてイメージを共有する行為である。それが具体的であればあるほど他者と共有がしやすい。それが抽象的で複雑であればあるほど、理解されにくい。

よって、抽象的なものは具体的なものに置き換えて説明するのが良い。その方が多くの人に理解してもらえる。

という事を多くの物書きが失念していてまあ頭にくる、ということを今日は言いたかっただけなのだが、思った以上に長くなってしまった。構造主義の本なんか読んだせいだ。

この調子で続けるともっと長くなること請け合いなので、今回はこれで終わりにする。この文章が分かり易かったか否かは読者に判断をお任せする。

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