高校で国語を勉強する意味
本業の傍ら塾の講師をしているのだが、国語ができない子が結構多い。教えている子どもたちは小から高までいるのだが、個人によって能力のばらつきがかなりあるというのが実感である。
思えば、母国語を中学校までならまだしも高校にもなって勉強するのはなぜなのであろうか。言語の4技能を思えば、大抵中学校までで、ある程度習得済みであると思う。しかしながら、わざわざその後3年かけて国語を学ぶのはなぜなのか。
特に現代文に限って考えてみたいのだが、中学校と高校の教科書で扱う文書がどう変わるのかというと、高校の教科書の方がより抽象的で理論的な文章を扱うようになるということだ。
そもそも、言語を学ぶという際には二つの側面があり、一つはその言語の文法や発音など、文字としての機能を学ぶという面と、もう一つは文章そのものの内容を学ぶという面がある。
中学までの教科書は、どちらかと言うとその文字としての基本的な機能に重点が置かれているように思える。基本的な文章の作り方、質問の答え方、過去形や進行形の判断などなど。内容としてそこまで難しくない(それでも躓く子はいるのであるが)。
だが高校になると、もはや機能としての言語は重視されず、むしろ論理の組み立て方だとか、具体から抽象にするとか、形而上学的な観念の話だとか、そういった内容面が問題を解くうえでは重要になってくる。
言うなれば、高校では国語を勉強しているというよりは、哲学であったり経済システムであったり、はたまた偉人であったりと教養を学んでいると見なすことができる。
こういった内容は、中学の頃と比べると何倍も内容が難しく、複雑で、理解しがたい。前提となる知識が無い状態ではまともに理解できないこともしばしばだ。
日常生活において、こんな小難しい文章を使うことなどそうない。日常会話で「イデアという形而上の観念が、実世界に及ぼす影響は…」みたいなこと話さない、するとしたらそういった専門の人たちの集まりだけであろう。
しかし、こういった内容を高校の授業ではやらされる。なぜか。
それはおそらくではあるが、理解力を鍛えるためなのだと思う。
高校の先生方だって、別にこのテキストの内容が将来何かしらの役に立つとは思っていない。役に立つとすればそういう道に進む時か、哲学がしたくなった時だろう。そうじゃない大半の人にとって、教科書の内容は「ふーん」で済ませられるものである。
それでもやるということは、つまり複雑で難しい内容の文章を理解できる能力を鍛えたいという意図があるのだと思うし、同時にその能力は我々の生活の中でかなり大事なのではないかと私は思うのである。
例えば、何らかの契約をする場面で、契約書とはたいてい難解で分かりにくいものであるが、その中に不当なものが混じってないか、論理的におかしなことが書かれてないかを判断するためには、まず内容が理解できなければならない。
例えば、会社の上司から仕事の指示書を渡された際に、いざ読んでみたら複雑すぎて何が書いてあるか分からなかったとしたら、その人は「できない」とみなされてしまうだろう。
他にも例えば、プレゼンテーションを受けている際に、相手の言っていることが理解できなければ、その提案が自分にとってどんな影響を与えるのかを推測することもできないし、逆に自分が提案側になった際に、相手が理解できる内容で説明できなければ、そもそも話にならない。
この、「相手の言っていることを理解する」能力が無ければ、日常生活にも結構な不便が生じることが、上記から推測されるだろう。
故に、この理解力が必要なのであるし、わざわざ3年もかけて鍛えるのであろう。
しかし、これが意外とできない人が多い。そして、そういう人は日常生活でかなり割を食っているのではないかと思うのだ。
逆を言えば、この能力を十分に鍛え上げることができた人は、他の人ができない分、人生においてかなり有利に働くのではないかとも思う。
いずれにせよ、昨今はコミュニケーション能力が必須能力とみなされている。ゆえに国語を蔑ろにするのは得策ではないだろう。