『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『チェンソーマン』を読んで昨今の流行りを雑に分析した。
コロナの影響もあり、私生活の変化もあり、最近暇を持て余していたのでジャンプ系で今人気と言われている『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『チェンソーマン』を読んだ。ついでに『怪獣8号』も一巻だけ読んだ。
元からジャンプはバトル色が強いので(なんてったって友情・努力・勝利だし)、バトルものであるのは当然で、それぞれがそれぞれで面白かった。
が、何か奇妙な共通点があるような気がした。ので少し分析しようと思う。
共通点の一つ目は、敵が人外であること。二つ目は主人公が敵の能力も使えるが人間側であること(鬼滅の場合は禰豆子)。三つ目は最強が既にいること。四つ目は展開が早いこと。五つ目は人がよく死ぬこと。
一つ目はおそらく、昨今の「悪役にも様々な事情があるから、一概に悪とは言えないよね」の風潮を踏まえて、人ではない人外の敵を作ることで絶対悪を作りたかったのだと思う。そうすれば、人vs人外の二項対立で物語を作り、読めばいいから作家的にも読み手的にも楽でよい。
二つ目は、おそらくその単純な二項対立のなかで主人公の特殊性を表現してる。敵の能力を使えるのは分かりやすい特殊性であり、余計な設定を付けなくていいから、これまた双方にとって楽である。
また、特別な主人公というのは、味気ないリアルの世界と対比して我々の「特別でありたい」願望を満たしてくれる。彼らは決して「どこにでも居るごく普通の女子高生」ではない。
三つ目の最強がいることは、おそらく主人公たちの強さインフレを防ぐためではないだろうか。強さの上限が決まっていることで、1ターン終わったら更に強い敵を、と後出しじゃんけんをする必要が無い。作家として物語のゴールが決まっていてやりやすい。
そして四つ目だが、個人的には『鬼滅の刃』を最初に読んで、ツイッターのタイムラインを見ているような、はたまたダイジェスト版の映画を見ているような気分になった。要は情報量が制限されているのである。
これは他の漫画にも似たような印象を受けた。おそらく、ゴールが既に決まっていて、そこに限りなく最短距離でたどり着くように作品が設計されているのだろう。間に合ったキャラクターの心情や絡みは極力排除され、省かれている。これはすごい要約力だと思った。
最後に五つ目だが、人がよく死ぬ。『呪術廻戦』『チェンソーマン』は顕著だが、主要キャラも単なるモブもよーく死ぬ。内臓が飛び散る。これは敵方がどこか災害をモチーフにしているからかもしれない。
以上のことからの雑な分析であるが、①読む側も作る側も単純な設定を求めている、②物語は短く簡潔に、余計な情報は極力省く、③物語のゴールと強さ上限は初めに提示する、④ご都合主義は無く死は平等、といった傾向が読み取れる。
それを踏まえての感想であるが、これはプレゼンではないだろうか?
初めに舞台を区切り、前提条件としての設定を説明し、結論を先に述べ、その根拠はなるべく簡潔にといった形式はプレゼンに共通するものがある。
プレゼンというものは、人間の情報処理能力がさほど高くないことを前提として情報を極力厳選して、大事な所だけ相手に伝えるものであり、これらの漫画も果たしてそのセオリーに則っていると思われる。
それは即ち、現代人はあまり冗長な設定を処理できる余裕(又は能力)が無いことの現れでもあるのだろう。
最後に一つだけ気がかりなのは、五つ目なのだか、これらの漫画は死の表現がかなり過激だということだ。特に『呪術廻戦』『チェンソーマン』は少年誌でいいのか?と思ったほどだ。この過激な死の表現はリアリティといえばそうなのかもしれないが、それが一般大衆に受け入れられていることを思うと、世の中の鬱憤が実は見えていないが相当溜まっているのではとそら恐ろしい気持ちになった。杞憂ならいいのだが。
日本でも悪いことが起こりそうで、かなり怖い。