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短編小説のような歌だよと言われて聴いたら思ってたのと違った

3markets[ ](スリーマーケッツ)の歌詞は短編小説のようだ。
短編小説が褒めすぎなら、オチがあると言い換えてもよい。
作詞作曲のカザマタカフミさんは、書籍化されたブログ日記にも顕著に見られるが、サービス精神が旺盛でオチをつけることを忘れない。
読んでよかったと思ってもらいたいのだ。
曲を聴いてよかったと思ってもらいたいのだ。
(なので、カザマさんはときどき「ぜんぶ本当の気持ちを書いている」などと語るが、どこまで本当なのかわからないと感じさせてしまう)

カザマさんの歌詞は、ひどくネガティブであったり攻撃的であったりするが、それが曲の最後のオチで一気に反転することが多い。
たとえば、愛猫家であるカザマさんが自分の飼っている猫のことを歌った「ね。」という曲。
この曲の語り手は「今夜 家に遊びに来ないか」と自分の家に異性を誘う。しかし「下心なんて本当にない」「絶対なんにもしないから」と言えば言うほど、そこには下心が透けて見えるような気がしてくる。
語り手が「猫を見にこないか」と何度も繰り返すのがいいかげん苦しい言い訳に聞こえてきたところで「見たら帰ってくれないか」とオチがつく。
語り手が相手の女性よりも猫を愛しているらしいとわかると、下手なくどき文句が一転、猫を偏愛する奇妙な男の味わい深い物語に変わるのだ。
「見たら帰ってくれないか」までが誠実さを装うためのくどき文句かもしれないと感じさせつつ曲は終わりを迎える。

同じような反転するオチを持つ3markets[ ]の曲はたくさんある。

たとえば「来世で遊ぼう」は、40歳を越えて同棲していた彼女への公開プロポーズにも失敗したカザマさんが、現世での運命の出会いを諦めて来世に期待するというストーリーだが、最後の一行で諦めきれてないことがわかる。

たとえば「さよならスーサイド」は、学校や職場でぼっちになりたくないがために、たいして興味のもてない相手とつるんでしまう人の習性を「自分より弱そうな人を見つけて声をかけていく」と唾棄していく内容だが、最後の一行に語り手の本心が見えてしまう。

たとえば「漫画とゲームと猫」は、「他人にあんまり興味が持てない」から始まって、他人とのコミュニケーション不全に悩む語り手が、自分自身を責めていく辛い曲だが、ラストに希望が見える。

たとえば「メンヘラ女とクソ男」は、明示されてはいないが、新しい彼女に「私との将来をもっとまじめに考えて」と言われたかなにかでバンドを辞めていったメンバーを「全部俺のせいにしてやめる君はとても卑怯だな」と攻撃する物語だ。最後にきれいにオチがつくフィクション。

おわかりだろうか。
オチの話ではない。
どの曲の歌詞もネガティブなことがわかるだろう。
これを「文学的」とポジティブに言い換えてみたい。
「文学」とは内省と批評のエンタメだからおおむね間違いではない。

あるいは「お約束を排除して誰も言わないことを言う」ことも文学だ。
ロックバンドは人気商売でモテるのが当たり前なので「来世に期待」とか言わないし、ファンに興味がなくても盛大に感謝していくものだし、オタク趣味は隠すものだし、辞めたバンドメンバーにはどんなに仲違いをしてもエールを贈るものである。
カザマさんは何も隠さず、すべてをネタにする。
いや、歌にするのだ。

なあ 若者たちよ 軽々しく年齢を聞くなよ
「一回り違う」って笑顔で言っているけれど
心の中で泣いてるんだぜ

おい 同級生よ「結婚まだ ? 」って聞くんじゃないよ
お前が俺の彼女ならバンドマンと結婚するのか
わかってて言ってるのかな
殺すぞ もしくは歌にするぞ

3markets[ ]「人生詰んだ」


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