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人はなぜ解り合えないのか?

なんだこのタイトルは
宗教か?まぁそんなところです。

あなたは、誰かの事を「解り」ますか?
解る!と答えたあなた。
あなたは嘘つきです。
☆U☆SO☆TSU☆KI☆

私は誰の事も解りません。

そして自分の事でさえ、解りません。

日常的に私達は「気持ちは解る」と言う言葉を使います。
それ、本当ですか?

そもそも「解る」ってなによ

例えばですが、友人からなにか相談を受けたときに、フイにでる
「気持ちは解るよ」

って言葉。

厳密に言うと何を指しているのでしょうか?

それは、
相談してきた相手の相談内容について、相手が何を思ったのか?
そしてその事についてどう感じ、傷ついたのか?それとも共感したのか?
はたまた、もっと他の感情を抱いたのか?
もはやそれですらないのか?

もうこうなってくると、そもそも「解る」も「解らない」も判断がつかないですよね。

つまり、「解る」というのは、相手が何を感じ何を思ったか?が全て「解る」ということなのですね。


「解る」の前提は、全てが言語化されているという事

ここで言う前提って言うのは、内容によっては
・前後の文脈がなければ絶対に解らない感情
・そもそも生い立ちに関係すらしている
・そもそも大事な部分が抜け落ちている

みたいな事を考慮しなければなりません。

それっておそらく無理なんです。
どんなに注意深く、考えようとしても全てをフォローすることは不可能です。

なぜなら、それは「相手が全て言語化をしている」ということが前提だからです。

仕事柄、社内でなにかスタッフ間でトラブルがあったとき、両者に話を聞く時があります。

とてもわかり易いですが、相手にされたことや起きたことについて何を感じ何を思ったか?についてはそれなりに話をしてくれますが、
「なぜそう思ったか?」については、言語化されるケースはほとんどありません。

自分に対して「なぜ?」を問うのはとても難易度が高いからですね。

人間対人間は抽象度の高い言語でやり取りをしています。

これが例えば機械であるとすれば、前提を整え、厳密な言語で且つ、完璧な文章を書かないと少なくともエラーを起こします。

ここで人間が機械と違うのは「想像」をするという点です。

仮に前提が足らない、且つ曖昧な言語をインプットしたとしても、おそらくこれはこの事だろうと自分の感覚、知識、経験と勝手に紐づけてそれを前提とします。

そうでなければ会話が成り立たないからです。

例えば、アナタは自分の考えに対して、そう思った理由を説明できますか?
また、そう思ったに至った経験や経緯を事細かに言語で説明ができますか?

私はできません!!!

ただ、「解る」フリしたほうがいいときがあるね

人間におけるコミュニケーションでは、この「気持ちは解るよ」が魔法になる時もあれば、爆弾になる時もありますね。

もちろん例外も多々存在しますが、
爆弾になる時は、大抵「あまり人の話を聞かなかった時」です。
魔法になるのは、「相手を全肯定した時」です。

ただ、私も含めてですが、人間におけるコミュニケーションでは
そもそも、本当にすべてを「解ってほしい」と思っているわけではありません。

いや!そんなことないでしょ!!

って思ったそこのアナタ!そうアナタです。

また面倒くさい事を言いますが「すべて」って何を指してますか?

その「すべて」は、端的に発言や場面を切り取っただけの範囲ではなく、そもそも、それをそう感じたり、そう思ったに至る過去の経験すべての事を指しています。

めんどくさく言うと(すでに十分めんどくさい)、相手のもった感情や考えの根拠となった事実や経験は何なのか?そしてそれは事実であって想像ではないのか?って事です。

どうでしょう。想像の範囲が99%ですよね。
ここまで考えて見ると人を解るって無理じゃないですか?
そう、解った気がするだけなんです。

ただ、んじゃどうすればいいのさ!と思うと思います。
って私がそうなりました。

本質的には、それはコミュニケーションの一部って事なんだなぁ

すんごいめんどくさい事をつらつらと書いてきましたが、つまりは
コミュニケーションの一部であるって言うのが妥当な表現になるのかなと思います。

あなたの感じたことや考えた事のすべてはわからないけど、私が逆の立場だったらきっと同じ風に感じたり考えたりすると思う。

って事なんですよね。

解らないということを前提としつつも、想像ができ且つ共感ができるよ。ってのが正確だなと。

【結論】「解る」んじゃなくて「想像ができる」が正しいよね

言葉としてはちょっとした差なのですが、こういった誤差を埋めて行くと、最も重要な自分自身の中の前提が変わります。

って言うのも、常に「自分は何も知らないし解っていない」を前提にすることで、あらゆる可能性を考慮しなければならなくなるからです。

逆に「私は全て知っているし解っている」と言う人がいたとしたら
「こいつやべぇ」ってなるじゃないですか?

この差って何なんでしょう?

つまりは配慮のバッファだと私は考えます。

この配慮のバッファは、自己成長における伸びしろ部分ですね。

常に自分には見落としがあるんじゃないか?とか
勘違いがあるんじゃないか?って考える事はとても大事です。

自分は全てあっているし解っているなんて思ってしまったら、それ以上にも広がりませんよね。

改めて文章を見てみると、これはおおよそ「修行」だなと思いました。

人生日々勉強・・・あ、その通りだわ。

乱文失礼。

それでは、皆様の明日が今日より良い日でありますように。

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