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退職の送別会、行事にはやはり意味があった。


祝杯も献杯も大切なセレモニー。いま禁酒中なんだけどね。

退職、というのを久しぶりにした。新卒で入社した会社には1年ほどしかいなかったが、そこでの仕事も人間関係もよい思い出はいっぱいある。同業他社、ジャンルは大きく違う企業に転職して35年半。定年のちょっと前に、先日最終出社日を迎えた。

毎日必死で泣きながら走ってきたと感じていたけど、実は恵まれていて楽しく贅沢に過ごさせていただいたに違いない。毎日当然のように得ていた、浴びるような新商品やら新情報、たくさんの人との出会い、強力なアウトプットも当然ではなくなる。サラリーマンを選んだ理由のひとつ、月々のお給料は入らないし、福利厚生やなにかといただいていた賞与もなくなる。やはりサラリーマンって守られてるよね。

私の家族はなぜかみんな自営業で、父は小さいながらも編集プロダクションの社長だったし、兄はライター、母は美容室を経営していた。そうすると、月給や一時金もないし、福利厚生も薄い。逆に給料を支払うほうだったりして、税金やら何やらいつも面倒そうだった。テレビのニュースで「ボーナスの時期です」と言っているころには、父は「ボーナス払わなきゃ」という状況で、家計は逆に苦しくなる。幼いながら、いや、幼いからこそそんなところしか見ておらず、サラリーマンに憧れていた。いまなら自営のおいしさもわかりますけどね。

そのサラリーマン生活も終了。恨み恨まれ、疎み疎まれ、といったどろどろした感情がないわけではない。けれど、会社の大会議室で行われた送別会では、まるで私がいいヒトで優秀ですばらしいパイセン、みたいな扱いになる。そりゃそうだそんなシチュエーションで悪いこと言わないわな。なんとなく居心地が悪くて「全員がヘイターになってくれていい」と言っておいた。去る者を悪者にすれば、一致団結チームの結束力が上がるじゃないか。結婚式とか葬式とか送別会は、本人を貶めるようなことはしない、やさしさがあふれるセレモニーなのだなあ。

思いのほか大量になった荷物を、とりあえず持って帰ってきた。家で待っていたつれあいが「お疲れ様でした」と大きな花束をくれた。わーうれしい。すぐ写真撮ってもらっちゃった。
そしてありったけの花瓶を出して、もらってきた花束を含めてばんばん活けていったらお花畑のようになった。こんなにお花をもらえるのは、この後は葬式くらいじゃないか。

セレモニーはできるだけ「やらないほうがいい」と思っていた。打ち上げも結婚式も葬式もなにかのお祝いも、INTJとしてはみんなで仲良くというのがどうもうさんくさい。逃げられれば逃げたいと思ってしまう。もちろん行事というモノは、連綿とつなげられてきたからには、自分にはわけわからなくてもそれなりの深い意味があるはずなので、季節の行事はやっておくことにはしているのだが。

この先のこととか辞めるきっかけとか、ぐるぐると「うずまき」の世界が垂れ込めていたのだけど、むりやり浄化された気がする。ありがとう、よかったね、ほめるほめる、お花やプレゼント。まずはこのふわふわした雲の上でしばらくうっとりしてもいいかもね。まあすぐ雲は消えて地面に叩きつけられて、またうつうつとするのだろうけど。
やはりセレモニー、行事というのは、前に進むためにも意味があるのかもしれないと思った。

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