狂炎ソナタ
狂炎ソナタ、2/2初日の公演を観てきたので感想文です。※2/6の公演にも行ったので追記しました。
めちゃくちゃ好きな作品だったけど全く褒めてないしネタバレもするので注意。本当に、全然褒めてません。
第1楽章 作品について (ネタバレなし)
音楽家がモチーフの大学路ミュージカルということで絶対好きなやつだと元々目を付けていて、案の定ものすごく好きでした。
主人公で作曲家のJが苦悩しながら新曲のソナタを書き上げていく様子が、Jの友人だったS、Jが師事した著名な作曲家であるKの回想と、Jの日記の読み上げによって語られる、という物語です。
Jが1楽章、2楽章と曲を書き上げるごとに物語も展開しそれぞれの楽章のテーマがリンクしている、より正確にはJが作曲にあたって得た外的なインスピレーションにそれぞれの楽章の名前をつけているので、彼が作った曲がそのまま劇中の彼の人生であり、このミュージカルそのものになっています。
それぞれの楽章はピアノで作曲/演奏され、そこにストーリーとしての歌唱が重ねられます。「ソナタsonata:器楽曲」は「カンタータcantata:声楽曲」とちょうど対の存在なので、ソナタを作りながら歌い出すというのはなんとなくおかしみがありましたが、この曲がエンディングでリプライズ的にオーケストラ(編成はPf.Vn.Vc.)に演奏される部分は完成した曲が世に出て広く演奏され聞かれるのを追体験しているようでとても感動的でした。ピアノ1本で作られた曲が、ヴァイオリン属特有の倍音構成やレガート奏法によってより奥行を持って響いて、「ソナタ」として作られた説得力を感じました。
(カーテンコールで「オケ」と呼ばれていたのでオケなんでしょうが、Pf.Vn.Vc.ならピアノトリオでは?と思ったりしました。~10人くらいまではバンド、それ以上だとオケになるイメージがあります。)
曲自体にとてもパワーがあり雄弁で、Jが作っているソナタと歌唱曲のとリンクやリプライズなどもふんだんに盛り込まれてミュージカルとしてとても満足度の高い作品だと思います。
第2楽章 作品について(ネタバレあり)
先に書いたJが作っているソナタの、各楽章のテーマ(発想記号)はこうです。日本語の意味は私がつけたので、ニュアンスが違ったらすみません。
1楽章:Mormorando 囁くように
2楽章:Religioso 厳粛に
3楽章:Simile 前と同じように
4楽章:Amoroso 愛情豊かに
5楽章:Beklemmt 息が詰まるように
Dolce lusingando 甘く優しく 媚びるように
曲が思うように書けないフラストレーションから飲めない酒を飲み運転して事故を起こし、その衝撃と恐怖がインスピレーションとなって一夜で第1楽章を書き上げてしまうJ。その仕上がりが素晴らしく、またそれほどのインスピレーションを他の方法で得ることができないためにまた罪を犯し、重ねるほどに仕上がっていく曲。
最初の事故で書いた1楽章、実は死んでいなかった事故の被害者に自らとどめを刺して書かれた2楽章、Kと共に4~5人?を殺して書いた3楽章、親友を殺して書いた4楽章と、明らかに3楽章のコスパが悪い(殺人をコストと呼んで良いかは別として)上に、テーマが「前と同じに」となっているのが救いようがなくて好きです。
韓ミュが殺人を犯しがちというのはあるとしても、Jが最初に事故を起こしたとき、それが殺してしまった「人」由来のインスピレーションだと感じたのが面白いなと思います。罪の意識や、逮捕されるかもしれない恐怖のような自分自身の内面から生まれるものではなく「死者が与えてくれる」外的なものとして捉えていて、これはJが己の才能を全く信じていないということで、終盤に明らかになる、盗作(Sは共作と捉えているのかもしれませんが)によってJはグロリアアルティスを受賞したということにも繋がります。
事故のあと血に濡れた手を五線紙で拭うJと、一夜で書き上がった罪の結晶である楽譜を評論家たちに見せるためとJから取り上げるKの描写で、音楽に罪悪感を擦り付け自分から引き離そうとするJとそれに参画するKが暗示されていたのかなとも思いました。
ところで、被害者たちが「どんな音楽になったのか最低限知るべきだ」と考えるJはSにも同じように「Amoroso」と刻んだのでしょうか?自らに「Beklemmt」と刻んで死んだJと比して、「Amoroso」あなたの音楽は優しさであり愛であると、刻まれながら遺されてしまったSの気持ちを想像すると、それこそ胸塞がる思いがします。
BeklemmtをJに示した張本人でもあるSですが、彼は電話口では殺人ではなく自傷をイメージしているように私は感じました。「何としても(ベートーヴェンの痛みを)取り戻そうとするだろうね。今の僕のように。」から、彼自身がそれを実践中であるような。それが言葉の通りの「痛み」ではなく「Jを」取り戻そうとしている、という解釈もできますが、どちらせによ何も明かされないまま終幕するので気になっています。
そんな「Beklemmt」を受けての第5楽章、Jはテーマにそのまま「Beklemmt」を掲げているように見えますが(自らの腕に刻む=名前をつけたのもそれ)、冒頭のKとSとの会話で「Kがグロリアアルティスを受賞した“狂炎ソナタ”」の5楽章は「Dolce lusingando」と言われていました。ずいぶんな方向転換ですが、個人的には「Beklemmt」はベートーヴェンの苦しみなので、Jの苦しみと喜びには別の名前があった方が良いと思います。Sの「Amoroso:愛情豊かに」とJの「Lusingando:甘く優しく 媚びるように」、正にそれぞれの音楽との向き合い方を示したようで、鮮烈です。
作品全体を通しては、随所に音楽用語をちりばめている反面、Jの曲をKが「12の音階を超える」「五線を飛び出す」というように褒めるのがいかにも安っぽくて陳腐な理想の音楽という感じで好きでした。そして同じく安っぽい音色の舞台上の白いグランドピアノ、こちらは敢えてピアノフォルテ的な音色を選んでいるのか(現代の電子ピアノならもっとグランドピアノのような音も出せるはずなので) Sの演奏するピアノやオケのピアノとのコントラストを生んでいて良かったです。JとSのピアノが生演奏でないからこその演出かなと。
作品を「音楽も人間から生まれる」「音楽を美しいと感じる人間こそが美しい」という人間賛歌として結んだのには意外性がありました。散々音楽のために殺しておいてそんなのあり?という気もしつつ、無くして初めて大切さに気付くみたいなことなんでしょう。音楽家(パガニーニ)を扱ったミュージカル CROSS ROADが「人も悪魔も、音楽の前には等しく奴隷」としたこととも対照的で、印象に残っています。
第3楽章 楽語について
印象的だった楽語などを忘備録を兼ねてざっと。思い出したら追記します。歌詞はうろ覚えなので1部韓国版を参照したものもあります。
上では「厳粛に」と書きましたが、特に宗教的なニュアンスで、敬虔な様子を表す記号です。芸術を成すために“対価を捧げる”Jの姿が表されているように思います。
優しく、愛情を込めて、といった意味ですが、似た表現で5楽章に使われているDolce:甘く柔らかに、と比べると柔らかく優しいだけではなく“愛”や“恋”であることが重要な場合の表現です。
ここはKが言った速度標語の意味をJが答えるような掛け合いで、それぞれそのままの意味
ライトモチーフ(示導動機)は特定の人物などのイメージと結びつけられたモチーフのことで、ミュージカルで例えるならTRUMPのライネス(状況)や、ダブルトラブルのガーナー(人物)のテーマのようなものです。
スタッカートは音を短く切って、レガートは逆に滑らかに繋げて演奏することを差します。
韓国ではレガートが(先に音楽をしていて、今も継続して努力している)J、スタッカートが(軽やかで余裕のある)Sを表していて、レガートの方が勝つのだと自分に言い聞かせている、という解釈があるようです。
個人的に思い出すのは、作中でも触れられる「モーツァルトとベートーヴェン」に絡めて、ベートーヴェンがモーツァルトの演奏を聴いて「演奏は見事だったが、音が途切れていてレガートでなかった」と書いている、というエピソード。モーツァルトの時代18世紀は歯切れよく軽やかに華やかにするのが主流でしたが、ベートーヴェンが台頭した19世紀はレガート奏法になっていきます。Jが憧れているのがSでありベートーヴェンであり、そんなベートーヴェンに脅かされるモーツァルトに自分を重ねているようにも思えます。 2/6修正追記:初日は「ベートーヴェンに脅かされるモーツァルト」の構図として捉えていましたが、2回目でよく歌詞を聞いてみると「天才モーツァルトに憧れるベートーヴェン」の構図をメインとしてベートーヴェンにJをかさねているようでした。
またこの部分は、Jが錯乱状態でなく、どのような曲を作ろうとしているのかを明文化した数少ないパートでもあります。外的なインスピレーションでなく彼自身から生まれた曲、あるいは彼が目指していた音楽を示している気がしています。
→この部分は2回目に観劇したときにはまるで誰かの受け売りがそのまま口をついて出たように流して言っていて、そちらも解釈に合うと感じました。
第4楽章 キャストについて
ここまで書いてきた通り、狂炎ソナタはとにかく音楽そのものの話で、文字通りの意味で命を音楽にした人の話です。音楽と歌で伝えるものがこれだけ大きいミュージカルも却って珍しいというくらい、正統派の、ミュージカルとして演ずるべき作品だと思います。それなのに、今回のキャスティングでは、驚くほど歌から伝わってくるものがないのです。
J役の猪野さんは声が良く、低音も比較的よく鳴っていて中高音である程度声量を出す音などはとくに張りのある綺麗な声ですが、声の良さに頼って出やすい音だけ張ろうとするので音程が雑で、早いパッセージや伴奏が薄くなると全くピッチが合っていません。とくに山場の泣かせどころであるM15「너는 나의 음악 (邦題不明、直訳はYou are my music)」がちょうど伴奏が薄く、歌の音数も少ない単調な歌謡曲風のメロディでごまかしがきかないので、逆に泣けるくらいに感動できない曲になってしまっています。
芝居は歌に比べれば悪くは無いですがまだ方向性が見えづらい印象で、正直Jがどういう人だったのか、全く分からないでいます。例えばJが殺人を犯して頭の中に音楽が聴こえるそのときを取ってみても、衝撃や歓喜に湧くようなところが薄く、もう一度罪を犯してでも再び手に入れたいと願うようなものなのか、という説得力が足りません。この物語で描かれるに値するだけの奥行や機微が、もっとあればと思ってしまう演技でした。
S役の杉江さんは率直に、商業舞台に立てるレベルの歌唱力ではないと思います。Jが追いつけないような音楽の天才のSのキャラクターに相応しくないという程度の話ではなく、緊張のせいなのか喉が閉まっていて音程は取れず、出にくい音を勢いで出そうとするのでその勢いのままリズムまで転んでしまっています。元の譜面がどんな曲なのか全く分からず、長く伸ばす音があると力むせいでどんどんピッチが下がっていくのも看過しがたく(これは2回目に観劇したときは気になりませんでした)、ミュージカルに慣れていないのか(どうか知りませんが)歌い出すと表情までぎこちなくなってしまうのも残念でした。あまりに何も出来ていない素人同然なので愕然としてしまいました。
K役の畠中さんは唯一の良心、いや役柄的には1番良くない人ですが、畠中さんがいらっしゃらなければ私は途中で退席も考えたと思います。歌の安定感などは当然として、Kのキャラクターをただ邪悪というのではなく、Jとも共鳴し合える音楽への想いや挫折と、Jの曲を見極められる音楽家としての耳の確かさと、名誉や利益を徹底的に優先する利己性と、様々な側面を破綻なく成立させているのが素晴らしいと思います。その上で、共感出来るわけでは全くない、乱暴な言葉で言うとサイコパス的な悪役として圧倒的な存在感を放っていました。少しコミカルに作りすぎている感はありますが、この点は3役のバランスが未だよく分からないので保留中。
今回のキャスティングで唯一良かったのが畠中さんのKで、それは私が狂炎ソナタを初めて知った時、親友同士のJとSの関係を引っ掻き回すK、の百合に挟まる〜ならぬ薔薇に〜というやつかなと思っていたんですね。今回JとSがもっと的確に2人の関係性を表現出来ていたなら舞台を見てもそう捉えた可能性があります。しかし幸か不幸かKの芝居の奥行だけがあるので、Kは利己的な悪人だけれども、JのSと分かり合えない部分と共鳴できるのがKで、Jが進む道の選択肢のひとつにKの道もあったのではないか、というJとKの繋がりを強く感じられるのがとても良かったと思います。作品についての誤解がとけたところで、ちゃんと歌える関係性のしっかりしたJとSが観たいです。
私が以前師事していた先生は、「作曲家がその曲をどういうものとして作って、どう演奏して欲しがっているかは譜面に書いてある」「絶対に譜面を蔑ろにしてはいけない」「譜面を無視してフレーズの途中でブレスするくらいなら息をせずに死になさい」とまで言う人でした。これは極端な例えですが、しかし作曲のために他人も自分も殺してしまうような強い音楽への想いを描いた作品を、こんな歌唱で表現するのは一体どういうつもりなんだろうかと思ってしまいます。もう自分で台本と譜面を観た方が得られる情報が的確かつ多いのじゃないか、と思いながら観る舞台は初めてでした。
終曲
あまりにも褒めて無さすぎてSNSに書きにくかったのでこっちに書いたんですが、気付けば4000字超えてました。パッション。マジでめちゃくちゃ好きな作品なので、何度でも書くけど、ちゃんと歌えて歌で表現ができて、欲を言えばピアノも弾けるキャストでやってください。
→2回目を経て加筆修正したら6000字を超えました。やっぱりめちゃくちゃ好きな作品だし2回目に韓国キャストのアフタートークがあり、そこで(即興的に)してくださった狂炎ソナタのピアノ演奏が本当に素晴らしくて、この様な解釈で、またアクターミュージシャンシップに則った上演で絶対に観たいと思いました。渡韓、前向きに検討します。
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