否定者たちに見る奇跡モチーフ
否定者たちは、小さな/分割された/部分的な、キリスト(救い主)なのではないだろうか、と凡トは思っております。
聖書やキリストっぽい奇跡モチーフがあちこち散りばめられているのですね。若干深読みしすぎかもしれないものも含め、その内容をご紹介。
ジーナ編
水の上に立つ
もちろん否定能力由来ながら、否定者たちはちょいちょい水の上に立ったり走ったり走ったりしています。これは1巻のジーナが正体を風子ちゃんに明かすシーン。
まず『水の上に立つ』というのはキリストの起こした奇跡のうちのひとつで、新約聖書に記載があります。
一足先に船に乗って出立した弟子たちのところへ、キリストが水面を歩いて追いつくお話です。
なお、新約聖書の中でも、キリストの生涯や伝道について書かれた『福音書』は何種類かあって、それぞれ別の弟子が書いたことになっています。
弟子の名前を冠して『ルカによる福音書』とか『マルコによる福音書』とか呼ばれ、大体共通した内容が書かれているものの、経験したかどうか、重視したかどうかでちょっとずつ差異があるのが面白いところ。
というわけで水の上を歩いたことに関しても記述は複数箇所あるのですが、ここはマタイによる福音書第14章を見たいと思います。
(余談ですが、聖書の文章にはかなり短いスパン(節)で数字がふられており、引用の際の目印になっています。
まず引用元の文書名や略称、次の数字が章、コロンを置いてその次の数字が節にふられている数字。
アンデラで例えるなら、すべてのコマに数字をふって、秋編53話12コマ目、とすれば画像をアップして共有できない時代でも、手元に単行本があればみんな同じコマを見ている前提でもくりができる!という工夫ですね)
「わたしだ( ー`дー´)キリッ」
今の時代に見るとオレオレ詐欺っぽ……エヘンゴホン。
実はこの後、弟子のペトロ(=にんげん)がイエスに願って『水上歩行チャレンジ』を行います。途中まではよかったんですが、溺れかけますw
ま、ふつー人間は水の上に立てませんわなぁ。
そんなわけで、『水の上に立ったり歩いたり』はイエス・キリストが起こした奇跡のひとつに数えられます。
このモチーフを繰り返してるかな?というのがタチアナちゃんのこれ↓
ご丁寧に船のモチーフつき(赤丸部分)!!!!!
(いやまぁタチアナがぶっ壊したので沈む船ですけども…w)(お空、超乱視の人が見上げた三日月みたいになってーらwww)
なお、他にも対クリード戦でトップが水の上(日本海)を走りますが、そのクリードの『不減』も、同じくマタイ14章に記述があり。これはまた後ほど。
ジーナという名前
ジーナというの名前の綴りは、2巻の冒頭、No.008の表紙絵でわかります(英語版ならもっと早く出てるはず💦)
"Gena"です。変わる (change→ch "ange")のもじりで不変の能力者であることをほんのり示してますね。angeってフランス語で天使だな…とぼんやり思いつつ、ここはふつーに英和辞書をひいてみます。
ほっぺ???
念のため語源と英英辞書のところまでスクロールしました
うん、ほっぺで間違いなさそう。
ほっぺかー。
これは奇跡ではありませんが、頬に関する有名なキリストの言葉があります。
またマタイか!(シャレでなく)
目には目を歯には歯を、はハンムラビ法典の有名な一文ですが、これは元は過剰制裁を禁じるもので、目をやり返したらそれ以上のこと(さらに腕や脚を折るなど)はダメだよ(※ただし同じ身分の者同士に限る)的な意味だそうです物騒やな…。
しかしながら、キリスト教では同等の『やり返し』もダメだよと。
詳しくないので恐らく、ですが。
これは無抵抗主義や博愛精神というよりも、アブラハムの宗教(=ユダヤ教/キリスト教/イスラム教などの総称)の『神(God)』は裁く神であるから、ということのようです。『復讐するは我にあり(申命記32:35)』という有名な句がありますが、実はこの発言者は神自身。裁くのは神の領域であり、ニンゲンごときがしゃしゃり出てはならない、すべて神の御心にお任せせよ、ということらしい。こういう『絶対的な服従』を要求するのはアブラハムの宗教の『神』の基本路線です。
というわけで、右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ。
この後、イエスによる説教はこれまた有名な『汝の敵を愛せよ』に続いていきます。
さて、話をジーナに戻しましょう。
ジーナ、
差し出された左の頬
……じゃね? 右の頬はボイドさん。
もちろんジーナは無抵抗だったわけじゃありませんが、バイカル湖(世界で最も古い三日"月"湖、ガラパゴス諸島と並ぶ生物進化の博物館…つまり変化の宝庫…)が舞台だってことといい、もう全力で「この人負けます!!!!!」と宣言されてるとしか。
同様にボイドさんね。No.003のオマケに設定が載っていますが、綴りがVOID。空の、空虚な、欠員の、無効な!
こんないかにも『主役2人が円卓入るためのキャラです!』みたいな名前なのに最新113話(2022/6/12時点)で再登場(?)しようとは、いったい誰が予想したでしょうか!!
(もしも。もしも本当に、ニコの『友』であるボイドとジーナ本人だったなら、夏編のときアンディがシェンを殴って止めたみたいに、ニコさんを止めたのかもしれないと思うと、それがなされないことこそ死別というもので…重…😢)
メタ視点は置いておいても、ボイドを(命ごと)張り飛ばされたところに出てきたジーナが、意識してか無意識にか「みずからを差し出していたかも」と思うと、アンディの
というセリフの重みが『変わり』ませんかね!?
ヤコブのはしご?
名前つながりでもうひとつ。
オレンジで囲ったところ、不変の能力で作った階段ができていて、そこをジーナが降りてきていますね。
これたぶん…、たぶんだけど、ヤコブのはしごと呼ばれる旧約聖書のエピソードのオマージュ。
聖☆おにいさんでは、確か通勤用エスカレーターになってましたね…w
もっと詳しい内容と、西洋美術での描かれ方まで網羅した解説はこちら!→聖書や神話を知らんと理解できんアートが多いのでエピソード別にまとめてみる(旧約聖書篇23) 〜「ヤコブの夢(ヤコブのはしご)」
さて、先ほどジーナの名前の話で、
Gena → (ch) ange のもじり→ angeはフランス語で天使だな…
と申し上げましたが!!
このシーンがヤコブのはしごならば!
・天から降りてくるきざはし
・そのきざはしを降りてくる天使=ange=神の御使い
となり!!
大変美しく『ジーナ』という名前に三重の意味が持たせられるのです!! 不変の能力の暗示と頬と天使!! 三重!! わんだほー!!
なので、ここはヤコブのはしごってことにしときたいですね!!!!
湖を割る
さて、旧約聖書つながりで、今度は湖を割る話。
モーセの話、かな?どうかな?といったところ。
モーセ(一定年齢以上だと『モーゼ』の方が馴染み深いかも)はエジプトで奴隷として虐げられていたユダヤの民(ヘブライ人/イスラエル人)を連れて、約束の地カナンへ向かって逃げるのですが、その際、行く手は海、背後は追手、という絶体絶命の危機に陥ったところ、神が奇跡を起こします。
モーセは海をまっぷたつに割りますが、ジーナは両手で水をすくったみたいな形で割るので、ちょいビミョーなところ。
ビミョーですが、この両手ですくった、という部分が次のポイントにつながります。
見えざる手
言わずとしれた空気を不変能力で操るジーナの技。
(神の)見えざる手(invisible hand)といえばアダム・スミスの国富論が超有名なので、検索かけるとそっちばっかり引っかかる!!
けど意味合い的には同じようなもんだから、まぁいいか…。
はい! ご覧のとおり!!
『見えざる手』はNo.112のアンディいわく『哲学』の話でもあるんですよ!!!!
ロングパスにもほどがある!!
不忘のニコさん呼んできて、って目の前にいたわ_(:0 」∠)_
人間に自由意思はあるのか? それともすべてが神によってあらかじめ定められているのか? もしかしたら、今自分が選んだと思った行動も神によって元々決まっていたのでは?というやつですね。
アウグスティヌスが最初だっけ?
なので!! 見えざる手つながりで最新113話でジーナ(ドールのすがた)が出てくるわけだったりして!! マジか!?
また、こちらの記事も面白い。
何に反応したか、みなさまもうおわかりですね!!www
invisible hand = mysterious hand = UN-Seen hand !!!!
でもごめん、ここではショーン君に絡んだネタは特にない。ごめんw
さて、見えざる手というのは、まとめると聖人による奇跡どころか、神の力、神のはたらきそのものを指すわけです。
てことは? 見えざる手を操るジーナは? 神……???
以上でジーナ編、いったん終了。
いやー、さすが、連載始まってもいつ打ち切りになるとも知れないジャンプですね。最序盤のジーナに惜しげもなくネタがぶっこまれてるわ…コワ…。
配っても配っても減らないパンと魚とグレネード
ジーナ編が想定以上に長くなっちゃったけど、ここからはさくさく行きましょう!
クリード vs トプチカコンビ に見る奇跡!
先ほども申し上げたように新約聖書マタイによる福音書を見てみましょう。
湖の上を歩いて渡る話の直前のエピソード。
パン5コとお魚2匹を配ったら、5千人が満腹になってさらにカゴが12コいっぱいになったよ!!というお話。イエス・キリストの奇跡のうちのひとつです。
どう見ても不減です。
一方、それに対抗するトップ君は
定番の奇跡、水の上を走っております。
でもって、当時TL上を賑わせていた疑問、「なぜクリードはチカラの目を完全につぶさなかったのか?」についてですが。
作中の理由が今後説明されるかどうかは知らないヨ。
もしかしたら、ビリーがコピーするためには、その時点で本人が能力を使える状態でなくてはいけないとか、そんなルールがあるかもしれない。
一方、メタ視点なキリスト教的回答がこちら。
答。みんなで(特にトプチカがお互い)信じたから。
「えーーーーー?????」となるかもしれないけれども、だってそうなっちゃうんだよぉ!(※凡トはクリスチャンではありません)
先ほども触れたように、アブラハムの神は裁きの神。特に旧約聖書は無茶ぶりするし理不尽でもある。自他境界のない試したがりのめんどくさい恋人かよ(不敬)
しかしそれでも信じろという。
キリスト教(新約聖書)になるともう少しマイルドになるものの(宗派ごとにいろいろな考え方はあるにせよ)神の手、導き、御心を絶対的に信じるように、というルール?決まりごと? には変わらない。
とはいえ人は弱く原罪(アダムとイブが知恵の実食べちゃった罪)も抱える迷える子羊なので、神の望むとおりに神を信じることがどうしてもできない。
ので、父なる神は子であるイエス・キリストを地上に遣わし、イエス・キリストが神の子であるしるしとして多くの奇跡を見せ、それでも完全には神を信じることができない存在である、という全人類の罪を背負って十字架にかけられた。
ので、そのことを 信 じ る ならばその罪はもう償い済み!! なぜならキリストが血と命をもってあがなってくれたから!! というのがキリスト教の教えのメイン…だと思うたぶん…(間違ってたら教えてください)
そして、この『信じる』ことに対する絶対さが、アンデラはあちこちに見られる。
「人は魂で生きている。そういう世界だと俺は信じる!」という本内アンディの宣言。
旧ジュイスの「輪廻を信じなよ!」というヴィクトルへの呼びかけ。
どうやら否定者(?一般人の例がないのでとりあえず限定的に)が心の底から信じると、世界の方が変わるらしい。能力の進化/深化と言われているけれども、それは否定できる世界の拡張でもある。
『信じろ』と(神が)呼びかけ、『信じる』と(人が)応える。言葉だけではなく、見えざる手、導き、はたらきを心から信じるとき、キリストを通じて世界には奇跡がもたらされる、とするならば。
トップ君が、「チカラは全速力の俺を不動の能力で必ず止める」と信じるならば、それに必要な目玉は『生えてこなくてはならない(ルール的に)』……のかもしれない。
死んだのちに甦る
信じるつながりで、最後。
ミサ曲には『クレド(Credo)』という構成曲があります。
ラテン語で「信じる」の意味。クレジットカードのCreditと同語源です。
これは要するに(俗に異端排斥などの目的で)争点になりやすいところなんかを、「わたしは〇〇と信じます」と人・神に宣言する信仰の儀式的なやつ。
いろんなパターンがあるけれども、短いのでこんな感じ。
キリスト教にとって、他の奇跡なんてオマケみたいなもので(大事は大事だけれども)、
何よりも大事な奇跡はイエス・キリストが十字架にかかって死に、3日目に甦ったこと。これがあるから、最後のほうの「罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのち」につながるのですね。
とすると、これまで挙げてきた奇跡はともかくとして、一番重大な奇跡を起こしているのは
・アンディ
・ヴィクトル
・リップ(でもこないだ退場した…。・゚・(ノД`)・゚・。
・シェン
・ビリー
となるのですが……男ばっかりだな???
おそらく、この分割された奇跡の体現者たちを束ねると神に近い存在になっていくと思うので、その辺がクソヤロー神に対抗する手段なのじゃないかと推測しているのですが…。どうかな…。
以上、聖書/キリスト教の奇跡モチーフでした!!
リンク先もおもしろいからよかったら見てねー!ノシ
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