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ずるいという見方
生きていると、あの人はこうで、私はこうだ。どうしてだろう、不公平だ、と感じる瞬間が訪れる。
不公平だと感じるのは私の立場、私の見方。きっとそれが不公平感を生み出しているのだろう。事実がどうあれ、そう感じるのは私だから。
だけど、自分が大事にされない場所にとどまる必要はない。そこに居続けるという判断をするのさえ私なら、私を動かすことができるのもやっぱり私だと思う。
きっと人々は公平になんてなれない。どうあがいても誰かを羨ましいと感じるし、手に入らなかったものに、目を向け続ける。手を伸ばそうともせず、目を向け続ける。どうしてだろう。
羨ましいという自分の心を形容する言葉は、歪んだ自我で育てると、ずるい、という他人の立場を形容する言葉に変わる。自分自身を振り返られない、傲慢なものの見方に変わる。他人を引きずり降ろそうとする人の使う言葉が、ずるい、だ。
羨ましいと言えない自分が、いつまでも伸ばしていない手、いつまでもこまねいている手を疎ましく思いながら、他人をずるいと形容する。
このずるさに、救いがない。