ミャンマー内戦⑬ミャンマーの未来~民族的多様性か?民族紛争か?(意訳)
中国主導のシャン州北部における停戦合意の決裂と、同地域での少数民族武装勢力(以下、EAO)の進撃は、ミャンマーの将来にとって2つの重大な問題を浮き彫りにした。すなわち、①中国の和平工作の本質と目的②1962年の軍事クーデター以前にミャンマーが享受していた連邦制の再確立はどうあるべきか?という問題である。
明らかに中国は、国軍だけでなく一部のEAOに対しても実質的影響力を行使できる唯一の外部勢力である。また武装勢力であろうとなかろうと、ほとんどの抵抗勢力は「自由で民主的な連邦制ミャンマー」を支持しているというが、その地域内での少数民族の地位がどうなるのか、あるいはどうあるべきなのかについては、誰も言及していない。
既存の7つの少数民族国家(シャン、カチン、チン、ラカイン、モン、カレン、カレンニ(カヤー))に真の自治権が与えられ、多数派のビルマ族が他の7つの地域の統治を任され、ネピドー周辺の連邦領が皆の共通の土俵になれば、数十年にわたる民族紛争は本当に終結するのだろうか?
問題は、1つの民族に主要な”民族グループ”が1つしかない”民族国家”が、チン州だけだということだ。そのチン族にしても共通語はなく、互いに理解できない方言が州内のさまざまな場所で話されている。カチン州にはもともと巨大なシャン族のコミュニティがあり、ミャンマーの他の地域から移住してきたカチン族が少数派になっている。そして、リス族やヌン=ラワン族が自らをカチン族と自認しているかどうかという問題もある。一方、カレン族のほとんどはエーヤワディー管区に住んでおり、シャン族やビルマ族などのコミュニティがある東部のカレン州には住んでいない。モン州では、都市部のほとんどのモン族がビルマ化しており、州都モーラーミャインには民族的にも宗教的にも非常に複雑な人々が住んでいるため、誰が何であるかを言うのは難しい。カレンニー州には、シャン族、パダウン族、パオ族の大きなコミュニティがある。西部のラカイン州には、仏教徒のラカイン族、イスラム教徒のロヒンギャ、カマン族、高地の部族民が住んでいる。
シャン州は最大の州であり、かつ民族的にもっとも多様な州である。この州には、シャン族以外のいくつかの民族(ワ族、パラウン族、コーカン族、パオ族など)が、自分たちの州を持ちたい、少なくとも自治権を持ちたいと望んでいる。複雑なのは北部で、シャン族、パラウン族、カチン族が重複して領有権を主張し、内戦の歴史を通じてそれぞれの軍隊が領土をめぐって頻繁に衝突してきた。ワ族はすでに東部山岳地帯に2万平方キロ以上の事実上の自治州を支配している。ワ州連合軍(UWSA)はシャン州進歩党(SSPP)のシャン州軍北部(SSA-N)と同盟を結んでおり、SSA/SSPPのライバルであるシャン州回復評議会(RCSS)ともは戦闘を繰り広げてきた。1940年代後半に、南部でパオ族が反乱を起こしたが、それは中央政府と戦うためではなく、シャン族のサオパ(王子)の権力に対抗するためだった。
1964年に設立され、1971年にSSPPという政治部門を結成したオリジナルのSSA(SSA-N)は、シャン州全体のために戦っていることを示すために、軍来に他の民族の兵士を加えていた。コーカン族の中国人部隊やパラウン族の大隊があり、カチン族やワ族の将校もいた。一方、RCSSは強い民族主義的、シャン仏教的アイデンティティを推進しているが、1988年にシャン諸民族民主連盟という政党が結成されてからは、SSA/SSPPもシャン民族主義を強めている。シャン州の状況の不条理に近い複雑さは、仏陀のお守りを身につけ、かつては強大なビルマ共産党と同盟を結んでいたパオ族の反乱軍を率いた、キリスト教徒のカレン族、故タ・カレイの例で説明できるだろう。
そのため、将来の連邦制ミャンマー、特にシャン州がどのような姿になるかは非常に未解決の問題である。この点、シャン州は、インド北東部のアッサム州(歴史的にシャン族が支配していた王国)との間に類似点がある。
1947年にインドがイギリスから独立した後、アッサム州はシリグリ・ネックから東のマニプールとトリプラの旧王国を除いたすべての地域で構成されていた。シャン族と同様、アッサム族は低地を支配し、周辺の高地にはさまざまな山岳民族が住んでいた。しかし、長年の反乱を経て、東部のナガ丘陵地帯はアッサムから分離され、1963年にナガランド州となった。ナガランド州の南に位置するミゾ族が住む地域でもインド政府に対する反乱が起こり、和平交渉の結果、1972年にミゾラム連邦領が形成され、1987年に州として宣言された。1972年には、カシ、ジャインティア、ガロ丘陵地帯もメガラヤという独立国家となり、アッサム州は、それまでシロン(後にメガラヤ州の州都)に置いていた州都を、低地の主要都市であるグワハティ近郊のディスプルに移さなければならなかった。1972年、中国と国境を接するアッサム北部地域からなる北東辺境局は、アルナーチャル・プラデーシュ州連合領となり、1987年には州となった。現在、アッサムに残るのはブラマプトラ川周辺の低地だけである。
アッサムの "バルカン化 "は、多数派であるアッサム人の間に不満がないわけではなかったが、平和のために支払わなければならない代償であった。シャン族は、国内の民族紛争に同じような解決策を喜んで受け入れるだろうか?可能性としてはノーだ。しかし、シャン州のシャン族以外の人々のための独立国家が存在しないのであれば、どのような解決策が考えられるだろうか?より小さな民族の「連合体」?州内の自治区?しかし、すでに自治領を持つワ族はそれを拒否している。ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)がほとんどの領土を掌握し、独自の行政を確立しているコーカンでも、同様の展開が進行しているようだ。
カチン州はどうなるのか?ネピドーの支援を受けた一部のシャン族(シャンニー族)は、カチン独立軍(KIA)と戦うためにすでに武装している。カチン州が平和になったとしても、地元のシャン族、ビルマ族、ラカイン族、そしておそらくリス族やヌンラワン族は、カチン族主導の州政府樹立の試みに反対するだろう。将来のカレン州は、現州とエーヤワディー管区のカレン族支配地域で構成されるのだろうか?ラカイン州北部の少数民族ロヒンギャは独自の州を持つべきなのか?それとも1961年から1964年まで彼らのために存在したマユ辺境地区を再建することができるのか?また仏教徒であるラカイン族の大多数は、自分たちの州における民族的・宗教的対立に関するこれらの解決策を受け入れるだろうか?
数十年にわたるミャンマーの民族紛争を解決する簡単な方法はなく、国民統一政府(NUG)と呼ばれる、統一されたはずの抵抗勢力の指導者たちは、現在の秩序に対して実行可能な代替案を提示できていないし、あるいは提示する気がない。2011年から2021年までの比較的開放的な時期にミャンマーに大挙して押し寄せた外国の平和構築者たちは、「平和創造」「対話のパターン」「良い統治」「和解」といったキャッチーなテーマでセミナーやワークショップを開催したが、紛争地域の現場の厳しい現実とはほとんど、あるいはまったく関連性がなかった。何百万ドルもの資金が、世界各地のまったく異なる種類の和平プロセスを手本にした、当てはまらない解決策を提案するための無駄な演習に費やされた。結局、こうした努力は誤った希望を抱かせ、混乱を招き、すでに存在する問題や紛争を悪化させるだけだった。
主要EAOだけでなく、国軍に圧力をかけるのに必要な影響力を持つ外部勢力はただ1つしかない。それはもちろん中国である。欧米の平和主義者たちとは異なり、中国はミャンマーに地政学的に重要な利害関係を有しており、欲しいものを手に入れるためならどんなことでもするだろう。そしてその回廊は、すでに建設されたガスや石油のパイプライン、アップグレードされた高速道路、ベンガル湾の深海港につながる高速鉄道の計画で構成されている。中国はミャンマーへの主要な投資国であり、最大の貿易相手国でもあるため、その関心は経済面にも及んでいる。
多くの人々の予想に反して、ネピドーの国家行政評議会(SAC)は倒れそうにはないが、もし倒れたとしても、それは民族や政府機関に関する多くの課題に対する、現実的で実行可能な解決策を見出すプロセスの始まりを意味するに過ぎない。またSAC後の政権は、2つの巨大な隣国と慎重に付き合う方法を見つけなければならないだろう: ミャンマーを支配したい中国、そして見過ごせないのは、これまであまり成功していないが、中国の影響力を最低限に抑えたいインドである。アメリカ、EU、日本、ASEAN、カナダ、オーストラリア、ノルウェー、スイスなど、ミャンマーの内政に関与しようとしているその他の国々は、決定的な重要性を持つだけの手段も技術も持ち合わせていない。
以上。