58歳 母の入居施設あれこれ
ある日、母の顔がイヤに黄色いとヘルパーさんから連絡があった。
救急車を呼んでもらって病院に搬送された。母の黄疸は胆管結石が原因と分かり、手術をして石を取り除いてもらったが、前のようにすぐに独居は難しいと医者から言われた。
そんな折、病院の近くに新しい介護老人保健施設いわゆる「老健」が建設中だという。今なら入居申請が通るかもしれないとのことで、早速問い合わせ、面接などを行い、施設のオープンと共に母はそこに入ることになった。
そこはすべて4人部屋でスタッフも若く、建物もモダンで明るかった。そこで行われる書道や歌の会などにも母は積極的に参加した。
私が面会に行くと、「お習字貼ってあるの見た?」と聞いてくる。
「うん、お母さんの字はやっぱりうまいね」と言うと途端にご機嫌になる。
しかし、「老健」にはそう長くはいられない。でも、母はもう自分の家に帰りたくないと言った。たくさんの人に囲まれて寝食を共にしたことで、一人の生活には戻りたくなかった。4人部屋というのも母にはよかった。会話ができる人ばかりではないが、誰かの寝息やおならが聞こえてくることで、孤独を感じさせない安心感があった。
私の家に来たところで日中は誰もいないし、変わった話があるわけでもない。娘だから容赦しないと気づいたのか、同居の案は却下された。
「老健」を出た後に家に帰りたくないとなれば、次は「有料老人ホーム」を探すしかない。
これまた運よく、実家の近くに新しく有料老人ホームが完成した。早速見学に行き、後日担当者が母と面接して入居が決まった。
ところが「有料老人ホーム」はすべて個室で部屋にトイレもあり、食事の時以外は誰とも会わない。書道や歌の会もなく食事以外は何の楽しみもなかった。私が買った歌の本を見ながら部屋で小声で歌うぐらいしかできなかった。母は「老健」に戻りたいと言ったが、しばらくはここで我慢してもらうしかなかった。
私は月に一度母を訪ねたが、お菓子を持って行って部屋で一緒に食べることぐらいしかできなかった。携帯電話も買って渡したが、間違ってボタンを押して故障したといってスタッフを困らせたり、電話をかけてくれても私が出られる時間は限られているので、あまり役に立たなかった。
母は「有料老人ホーム」で約1年間過ごした後、前の「老健」で再び受け入れてもらえることになった。もちろん今回もそう長くはいられないが、それでもいいと母は承知した。スタッフは前と変わらず若い人が多く、以前一緒だった入居者も入ってきて、お互いの再会を喜んでいた。
母がまた元気にみんなと楽しそうに話している姿を見ることができてうれしかった。
こうして母は「老健」と「有料老人ホーム」の行き来を繰り返した。
その頃、姉夫婦が実家に住むことになり、ようやく私はバトンタッチができた。これで母に何かあっても姉がすぐに駆けつけられる。私の家からは電車で3時間以上もかかってしまうのだ。
ある時、母は施設で変な転び方をして大腿骨を骨折した。しかし、母の心臓では手術は無理と医者に言われた。そして車いすの生活となり、いきなり介護5となった。母は年相応の物忘れはあるが、頭の方はそれほど鈍くなってはいなかったので会話は問題なかった。
介護5になったので、今度はいよいよ「特別養護老人ホーム」を探さなくてはならなくなった。あちこちに申請を出して約半年後、「特養(特別養護老人ホーム)」の入居が決まった。そこが母の終の棲家となる。これでもう別の場所に行くことはないというと、母はとても喜んだ。
「老健」から「有料老人ホーム」そして「特養」へのこの一連の流れは、義母の施設探しにも大いに役に立った。
義母は認知症だったので「グループホーム」に入り、次に「有料老人ホーム」、そして「特養」へと移っていった。
二人とも最後は「特養」から「病院」へ搬送されて亡くなった。
母92歳、義母99歳でした。
ここまで長生きしたらの話だけど、
私の子供たちにもこの流れを伝えておかねばならない。
はたして私はどちらのコースを進むのでしょうか。