30歳 スペイン人の手足は思ったよりずっと長い
セビリア美術大学の裸婦デッサンでは、横80cmx縦120cmのゴワゴワしたピンク色の再生紙を使う。
それは日本で使っていたデッサン用紙よりもずっと大きくて安かった。しかし、材質はイマイチで丁寧に扱わないとすぐに破れてしまう。それをベニヤ板に画鋲で止めて木炭で描き、消すときは布を使った。
裸婦モデルは日本と違って年齢も体格も様々な人が登場するが、時々下腹部に大きなテープを貼っている女性モデルがいた。おそらく帝王切開で出産した跡だと経験者の私にはすぐわかった。ポーズは基本的にはモデルに任せられているが、どのモデルも意外と普通で、みんな似たようなポーズを取る。特に男性はリクエストしたわけでもないのに闘牛士のようなポーズを取り、学生たちもピーピー指を鳴らして大喜びする。
以前フランスで絵を勉強していた友人にデッサンを見せてもらったが、体を捻じ曲げて足を大きく開いたり、うなだれて今にも倒れそうだったり、見たこともないようなポーズばかりで驚いたことがあった。さすが、芸術の都パリのモデルと思ったものだ。
裸婦デッサンではいつも同じことを先生から指摘された。
「肘から手首までの長さと膝から足首までの長さが短い」と。
毎回も言われるので自分でもかなり意識して描いているのだが、やっぱり手足が短いと言われる。私の中ではそんなに長いはずはないという思いが強くあるのだろう。日本人しか描いたことがなかったので仕方がない。
油絵のクラスでは、各自が自由にテーマを決めて描くのだが、私は友人のピラールを描くことにした。4月のセビリアの春祭りでフラメンコ衣装を着たピラールを描きたかった。
家にあった写真を持ち出して、今度こそ手足が短くならないようにしっかりとデッサンした。最も足は見えないので幸いだった。下がきはなんとか進んだが、油絵の具で顔を塗り始めると、なんだか日本人みたいな顔になってきた。
おかしい、何かがおかしい。おそらく目と鼻が違うのだ。いや、他もなんだか変だ。目の大きさや目じりの下がり具合、鼻がどこからどんなふうに高くなっているのかがわからなかった。写真を見ているだけではどうにもならなかった。
ピラールに電話して時間ができたら家に来てほしいとお願いした。
数日後ピラールが来てくれたので、あなたをモデルに絵を描いていること、それがなんとしても顔が描けないことを話した。そして、実際にピラールの顔を触らせてほしいとお願いした。
ピラールは自分が描かれていることを喜んでくれた。そして、お好きにどうぞ触ってと言って顔を差し出した。
私は両手を広げて後頭部から頭頂部へ何度も手を動かした。上から頭を見ると鼻に向かってくさび型のような形だ。顔の横幅が狭い。おでこは丸くはなくストンと下に下がっている。「おでこ」という言葉はふさわしくない彫刻のようなきれいな額だ。ひたいから続いて細くまっすぐな鼻になり小鼻も小さい。鼻の下は短くキュッとへこんでいる。口は大きいが唇は厚くない。
上に戻って眉毛の下は、いきなり大きくへこんで目になる。鼻との高さの違いが思っていたよりもずっと大きい。こんなに高低差があったら鼻が視界に入って相当邪魔だろうと思った。目はいわゆる葉っぱのような形ではなく、目を開けた時は丸に近い。
最後に下から顔を見ると鼻の穴が細長く、「穴は丸」というイメージはまったくなかった。さんざん人の顔を撫でまわしてしまったが、見るだけではわからないたくさんのことが理解できた。
油絵が完成しピラールに見てもらったが、自分より大人しく知的に見えると喜んでくれた。
大人しいという言葉はちょっと(日本人ぽくて)気になるが、すこしはスペイン人に近づいたとしよう。逆の立場でスペイン人が日本人を描いたら、それはそれで大変だろうなあ。顔を触って「こんなに平らなのかー」ってね。
何事も思い込みから抜け出すのは難しい。