小5 姉の定期券がトイレに落ちた
江戸川区から千葉の船橋市に引っ越しても小学五年生の姉は転校しなかった。
私はそのことを何も疑問には思わなかったが、母の一存でそうなったと最近になって姉から聞いた。
母は五人姉弟の上から二番目で、姉弟は皆結婚しても近場に住んでいた。私たち一家だけ品川を離れて江戸川区に引っ越した。母は、はじっこでもいいから何とか都内に留まりたいと思ったらしい。
江戸川区に移って二年がたったころ、両親はそろそろ自分の家を持ちたいと思ったそうだ。しかし、なかなか予算との折り合いがつかず、ついに川向こうの千葉県市川市ではなくさらに奥の船橋市にようやく買えそうな土地を見つけた。
あれだけ都内にこだわっていた母にとっては、都落ちのような気持ちだったのか、姉だけは都内の学校に留まらせた。
公立学校に通うにはその地区の住民票が必要だ。そこで母は大家さんの知人を頼ってそこに母と姉の世帯の住民票を入れさせてもらい、越境通学させることにした。内情は担任に伝えたと思うが、千葉から通学するというこの不思議な状態を学校はどう理解したのだろう。
姉は船橋市の家からバス、電車と乗り換えて一時間半もかかる江戸川区の公立小学校にランドセルをしょって通ったのだ。
電車の中で時々黒いランドセルに黒いソックスを履いた小学生を見かけるが、あれはお金持ちの私立の小学生だ。高い交通費を払ってわざわざ区立の小学校に行かせるとは、東京以外の場所は教育が遅れていると思ったのだろうか。
姉は小学校を卒業した後もそのまま同級生たちと同じ江戸川区の公立中学に通った。姉と私は三歳違いだが、
「お姉ちゃんは学校が遠くて大変だな」と思っていた。
まさかそれが特別なことだとは思わなかった。
姉が中学二年生になったばかりの頃、家のトイレで姉がうっかり定期券を落としてしまった。その頃のトイレは汲み取り式で、下の汚物が丸見えだ。その汚物の上に乗った赤い皮の定期入れが今にもその塊から落ちそうだ。母は長い棒を持って便器に頭を突っ込み、何とか取ろうとしている。
「うわー、よくお母さんそんなことができるね」と私は言った。
それまでも汲み取り式トイレの掃除ができるお母さんを尊敬していた。
私も大人になったらやらなきゃいけないのかと思うと大人になりたくないと思った。
母がいじればいじるほど赤い定期入れは汚物にまみれていく。
「もうお母さん無理だよ」と私が言ったら
「何言ってんの、なんとか取る。バスと電車で何万も払ったんだから」といって頭を突っ込んだままだ。
姉は上から母の様子を黙って見ていた。
しばらくすると、
「あーっ!取れた!」と言って汗びっしょりになって茶色になった定期入れを見せた。
ケースから出すと少し黄色に変色した紙の定期券が出てきた。母は文字が消えないようにそっと水で洗った。日時や名前はかろうじて読める。昔は有効期限が大きなハンコで押されていたので、それが見えなかったら使えない。
姉は自分がトイレに落としてしまったので何も言えず、その後、六か月もその定期券を使うことになった。
勿論、赤いケースもきれいに洗ったが、毎日何度も見せなくてはならず、中学生の乙女には辛い日々だったろうなぁと思う。