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64歳 においは慣れると分からない

母は昔やった盲腸の手術のことを子供の私によく話した。
 
いきなり悪臭の話になるので要注意。
母は盲腸の手術を終えて無事退院し父が待つ家に帰ったが、腹の痛みがひどくなりトイレに駆け込んだ。縫った傷口が裂けて中から化膿した膿(うみ)がどんぶり一杯出て、それが玉ねぎの腐ったような強烈な匂いだったらしい。
 
今でも一気に言えるぐらい何度も聞かされた。父もその匂いの表現には同意していたが、冷蔵庫がある現代では玉ねぎを腐らせることはほとんどないので、その強烈な匂いがあまり想像ができない。

さっき観た映画でも臭い匂いを「卵の腐った匂い」という表現をしていた。硫黄のようなにおいなのだろうが、こちらも実際に卵を腐らせる経験はあまりないが、十分想像することはできる。
 
私は比較的鼻が利く。10年前にスッキリと禁煙したために、さらに匂いに敏感になった。タバコを何十年も吸っていた人が言える分際ではないが、タバコのにおいはクサい。

吐く息に始まって、髪の毛、洋服、部屋、ソファ、ベッド、車の中、その人が行くところすべてにタバコの匂いがくっついてくる。私の友人も今は完全にタバコをやめたが、彼の右手の人差し指と中指はずっと茶色かった。だから、禁煙したと聞いても指を見ればそれが本当かどうかすぐに分かり、「また吸ったでしょ」という私の言葉に返す言葉がなかった。72歳の年に不相応なきれいな指は、もうきっぱりとタバコと縁を切ったことが分かる。
 
次々とやめていく人をよそに、夫と息子はまだタバコを吸っている。吸わない人が増えたことで彼らは台所の換気扇の下でしか吸えなくなった。おかげで家の中は空気がきれいになった。汚していた私が言うのもおこがましいが。
 
家にはその家独特のにおいがある。女の子の多い家はなんだかイチゴジャムのように甘くて酸っぱいような匂いがするし、昔美容院と住まいが一緒になった家は、台所までパーマ液の匂いがして食べ物の匂いが分からなくなった。今はパーマ液もよくなり、そんなに不快な匂いではなくなった。
 
私が小学生の頃、友達が家に遊びに来ると、決まって「今日はお寿司なの?」と聞かれた。父が写真の現像で使っていた酢酸の匂いがお寿司を連想させるのだ。我が家の誰もそれに気が付いていなかったから、においは慣れると麻痺してしまうのだとわかった。
 
今の我が家はどんな匂いがするのだろう。60歳をとうに過ぎた夫婦2人だけの住まいだから、甘くもすっぱくもないだろう。
 
先日、娘の家に行くとき、私はタンスから出したばかりの湿気くさいコートを着ていった。歩いているうちに匂いも消えてなくなるだろうと思った。

しかし、娘の家に着くと、5歳の孫が私のコートを指差して、
「これ、バー(私)の家のにおいがする」と言った。
 
うわー!我が家はこんな湿気臭いにおいだったのか。
完璧な年寄りのにおいだー。

鼻の利く私でも自分のことはわからない。
 

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