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小6 新しいズックの密かな楽しみ

千葉に引っ越してからも年に何度か品川の祖父の家に遊びに行っていた。

私が小学校の高学年になると中学生の姉はもう一緒に行かなくなったが、私は従妹と遊べるし、伯母(母の姉)や伯父が優しくしてくれるので一人でも行くのが楽しみだった。

何日間か過ごして、いよいよ家に帰る頃になると、伯母が必ず近くの靴屋さんに連れて行ってくれた。そこは平和坂商店街にある小さな履物屋でサンダルから長靴まで履物なら何でも売っていた。

店の前には平積みになったつっかけ(ビニールのサンダルなど)や前部にゴムのついたビニールのズックが並んでいたが、伯母は店の奥へ入ってガラスケースに並んだデニム地のズックを指さして、
「どれがいい?どれでも好きなものを買ってあげる」といった。

ズックとはヒモのないスリッポンのことで、材質はビニールが主流だが上部がデニムのような厚い布でできているのもあった。デニムのものは色やデザインがきれいで選ぶのにいつも迷った。

ガラスケースに入っているものは値段も高く、どれも千円以上した。今なら一万円以上だろう。その店で買ってくれるズックは高いだけに質もよく、翌年までの一年間それ一足で間に合った。
だから、伯母は毎年私のはき古したズックを見て新しいのを買ってくれたのだろう。

買ってもらったズックはすぐには履かなかった。
私にはもう一つの楽しみがあったからだ。

私は新しいゴムのズックの匂いが大好きだった。
靴の中に鼻を突っ込んでクンクン嗅ぐのがたまらなかった。自分の鼻で匂いを全部吸い尽くすかのようにいつまでも離さなかった。

猫がマタタビにうっとりするのをテレビで見たことがあるが、あれに似ている。母や姉はなんでこんな匂いがいいのかねと言っていたが、家にこの匂いが好きな人がいなくてよかったと思った。そうでなければ取り合いになってしまうからだ。

そういう姉にも好きな匂いがあることを知った。
それはクリーニング屋さんの匂いだ。
どうりで父のワイシャツや背広を出すときに、「私が行く」と率先して持って行っていたわけだ。クリーニング屋さんの匂いなんて、それこそ何がいいのかと思うほどまったく魅力のある匂いではない。まあ人それぞれということだ。

品川の伯母が亡くなった時、毎年ズックを買ってもらった話をしたら、従妹は誰も知らなかった。五十代の二人は口をそろえて
「そんなに高いズックなんて一回も買ってもらったことない」といった。

余計なことを言ってしまった、ごめんね、おばちゃん。 


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