5歳 赤いお金しかいらない
品川の私の家は、祖父の経営する金属加工工場の二階だった。
工場と言っても、いわゆる下町の町工場で十五坪ぐらいの小さな場所だ。
その二階にある六畳一間に家族四人で暮らしていた。二階にはガス台だけがあって水道はなかったので、食事の支度をする時、母は下の水場で準備しなければならなかった。切った食材を鍋に入れて二階に持って行って火にかける。食べ終わったら、また食器や鍋を下におろして洗う。小さな子ども二人もいて、相当面倒で危険だったに違いない。
大人になって母からその大変さを聞いて、
「どこかもっといいところを借りればよかったのに」と言ったことがある。
「おじいちゃん(母の父親)が安く部屋を貸してくれたから、それで貯金できたのよ。多少の不便は我慢できた」とのことだった。私には多少の不便とは思えないが。
下の水場は工場の丁稚の人たちも使う。工場の一角に部屋があって、当時二人の丁稚の人がいた。小さい工場とはいえ見習いの丁稚がいたとは、祖父の旋盤加工の技術を習得するために奉公に出されたのだろう。祖父は長年の勘を頼りに機械で金属を削るのだが、旋盤は目ではわからないとても繊細な仕事である。それも祖父は仕事中に金属の小さな破片が目に飛んで、それ以後は片目で仕事を続けたのだというのだから、あっぱれとしか言えない。
二階から外に出るには下に降りて工場を通ってしか行けないので、必ず工場で働いている祖父と叔父と見習いの人たちに会う。
「どこに行くの?」とか
「早く帰ってくるんだよ」とか
「あんまり遠くに行っちゃだめだよ」とか、誰かしら声をかけてくれる。
お小遣いをくれるときもある。というか、ほぼ毎日誰かがお小遣いをくれる。その頃は、何がいくつ買えるかよりも、十円玉という、見慣れた使い勝手のいい硬貨にこそ価値があると思っていた。
たまに五十円玉や百円玉をもらうことがあったが、そんな時は「いらない」と言って返していたそうだ。
「赤いお金がいい」といって喜ばなかったらしい。
「マーちゃん、ばかだな」と姉は言ったが、五歳の私には赤いお金か穴の開いた茶色のお金(五円玉)しかうれしくなかった。それに、ほぼ毎日誰かがお小遣いをくれるから、困ることもなかった。くれたことはあまり大っぴらにしなかったから、同じ日に何人もの大人からお小遣いをもらった。そのお金は駄菓子屋のアンズやゼリーに消え、紙芝居でも梅ジャムに変わった。
時折、パン屋であんこ玉を買うこともあった。あんこ玉は十円玉ほどのあんこの丸い塊を寒天でコーティングしてあって、二つくっついて十円だった。白あんのもあった。パン屋のおじさんは母の幼なじみで、昔の母はかわいかったと行くたびに話した。あんこ玉は黒が二つ、白が二つくっついて一つだから、黒と白の組み合わせでほしいと頼んでもなかなか売ってくれない。おじさんの機嫌のいいときだけ、なぜか黒と白のセットにしてくれたり、片方だけ五円で売ってくれたりした。
今思うと、十円でいろんなものが買えた。銭(せん)というお金はもうなかったが、三つで十円とか、二個で五円とか、今ならちょうどその十倍か。
赤いお金だって今なら百円だ。子供のくせに随分散財したものだ。
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