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『万葉集』巻第9-1776・1777 ~ 播磨娘子の歌

訓読

1776
絶等寸(たゆらき)の山の峰(を)の上(へ)の桜花(さくらばな)咲かむ春へは君し偲(しの)はむ
1777
君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず

意味

〈1776〉たゆらきの山の頂の桜が咲く春になったら、あなた様をお偲びいたしましょう。

〈1777〉あなた様がいらっしゃらなければ、どうして私は身を飾り立てましょうか、化粧箱の黄楊の櫛さえ取ろうと思いません。

鑑賞

 播磨娘子(はりまのをとめ)の歌2首。播磨娘子は播磨国の遊行女婦(うかれめ)かといいますが、伝未詳です。ここの歌は、石川君子(いしかわのきみこ)が播磨国守の任を解かれて帰京する時に詠んだ惜別の歌です。石川君子は霊亀2年(716年)に播磨守となり、養老4年(720年)10月、兵部大輔に遷任されて帰京していますから、この折の歌とみえます。

 1776の「絶等寸の山」は播磨国府に近い山とされますが、所在不明。国府は今の姫路の東方にありました。お別れしたら、それきり思い出してもらえないだろうとの嘆きを、共に見たことのある国府付近の春の桜に寄せてうたっています。1777の「君なくは」は、君がいないのならば。「櫛笥」は女性用の化粧箱。「小櫛」の「小」は美称。

 国文学者の窪田空穂は、1776の歌について「きわめて婉曲に訴えているものであり、これは国守と自分との身分の距離を意識してのことである。共に愛でたことのある国府付近の山の、春の桜に寄せていっているのは心細かく、気の利いていて、遊行婦にふさわしい」と述べ、1777についても「遊行婦の歌としては含蓄のある優れたものである」と評しています。また、作家の田辺聖子の言葉、「男は去り、女は歌とともにそこにとどまる」。

 なお、石川君子は後に大宰府の少弐に任じられており(724~729年)、その地の海女たちの姿を見て、「志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに」(巻第3-278)という歌を詠んでいます。「櫛笥の小櫛」と詠ったのは、彼が播磨で愛した娘子の歌を思い起こしたのかもしれません。

 娘子(おとめ)と呼ばれ、万葉集に秀歌を残している人たちの多くは遊行女婦(うかれめ)たちだろうといわれています。その殆どは出身国の名がつくだけで、どのような生い立ちの女性であるか定かでありません。当時は、身分の高い女性のみ「大嬢」とか「郎女」「女郎」などと呼ばれ、その上に「笠」「大伴」などの氏族名がつきました。
 

遊行女婦
 遊行女婦は「うかれめ」とも訓(よ)み、彼女たちは、官人たちの宴席で接待役として周旋し、華やぎを添えました。ことに任期を終え都へ戻る官人のために催された餞筵(せんえん)で、彼女たちのうたった別離の歌には、秀歌が多くあります。その生業として官人たちの枕辺にもあって、無聊をかこつ彼らの慰みにもなりました。しかし、そうした一面だけで遊行女婦を語ることはできません。彼女たちは、「言ひ継ぎ」うたい継いでいく芸謡の人たちでもありました。
 「遊行女婦」の「遊び」とは、元々、鎮魂と招魂のために歌と舞を演じる儀礼、つまり祭りの場に来臨した神をもてなし、神の心なぐさめる種々の行為を意味しました。「宴」が「遊び」とされたのも、宴が祭りの場に起源をもつからです。そうした饗宴の場には、男性と共に女性も必要とされました。ところが、律令国家が成立して以降は、女性は次第に公的・政治的な場から排除されるようになります。官人らの宴席に、男性と同等の立場で参加できる女性は限られてきました。中央には後宮があり、貴族の宴席に侍ってひけをとらない教養を持った女官がいましたが、律令規定では地方に女官は存在しません。その代わりに登場したのが遊行女婦だったと考えられています。
 

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