どれだけ壊れたら認めてくれるのか
どれだけの努力をしたら、自分のことを認めてあげられるのか。
どれだけ壊れたら、自分の事を心配してくれるのか。
「頑張った」とか、「もう限界」と感じるラインは人それぞれで、体に余力はあっても気持ちが追いつかない人や、体に無理を言わせてでも動き続ける人もいる。
どちらが正しいなんて決める事はできないけど、強いて言うなら、「自分の限界ライン」を超えないことが重要なんだろう。
じゃあ、「自分の限界ライン」はだれが決めてくれるのだろう?
「自分の」なんだから、当然ラインを決めるのも自分なのだろうか。その場合、体が悲鳴をあげても動き続ける人は一体どこにラインを引くだろう。
我が生命が途絶えるまで!とは行かないだろうが、適当なラインが引かれることもなさそうだ。
かといって、「自分の限界」を他人が決めるのもおかしな話だ。
ならば、疾患や病気はどうだろう。
「何人も、病気を発症するほどに努力した場合は、無理のしすぎ、十分頑張っているとみなすことができる」
これなら、とりあえずは病気の進行を止めることができそう。しかし、すぐに疑問が沸いてくる。
じゃあ、病気を発症するに至っていない人は、「頑張っている」と言えないのか、という疑問だ。
僕は、自分の事を「頑張っている」と認めてやりたい。
けれど、本当に頑張っているのかと問い詰められてしまえば、恐る恐る首を横に振ってしまう。
本当は時間に余裕があって、友達がいて、生活できるだけのお金もあって、課題やら将来の不安やらに追い詰められているのは全部自分のせいだって分かっている。だから、今の自分を「頑張っている」と認めることは、怠けた自分を容認してしまうこととイコールで、それはただの甘えにすぎない。
じゃあ、今抱えているその不安はちっぽけなものなんだろうか。
友人や高校のクラスメイトの中には、うつ病になって学校を休んだり、貧血で突然倒れたり、ストレスで胃に穴が空いてしまった人がいた。
そういう人をみると、どうか幸せになって欲しいと心から思う。
それと同時に、すごく不謹慎で失礼だけど、「自分も胃に穴が空いたり、うつ病になったりしたら、頑張ってるって自分を認められるのにな」なんて考えてしまう。
(決して、「病気を発症した人は弱い」なんて言いたいわけじゃなくて、「病気を発症するに至っていない僕は、まだまだ頑張れる余地があって、自分に対する追い込みが足りないんだな」と思ってしまうってことです。)
ストレス耐久値が人によって違っていて、それに優劣をつけることはできない。必要な時に、必要な人に頼るしかないんだろう。
じゃあ、ストレス耐久値が高い人は、壊れてしまうその時まで人に頼っちゃだめなのだろうか。
他人と比較せず、自分を素直に認めることができるようになったらいいなぁ
(誤解を招くような表現があったらごめんなさい。上手く文章にできませんでした💦)
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