父、76歳の人生記。-第7話:甲斐田町ブルース〜戦争直後の遊び方-
はじめに
このnoteを書いているのは、主人公”ぼんちゃん”、の息子です。
戦後間もない大阪出身で現在76歳の父が、自身が年老いていくことを理解しながら、自身の人生を振り返りパソコンにしたためてきた文章。
それを私が読みやすく校正し、名前や地名は仮のものに変えながら、ほぼそのままで掲載していこうと思います。
父が辿ってきたのは波乱万丈の人生なのか、平々凡々な人生なのか、私も楽しみです。皆様も楽しんでいただければと思います。
※”()”は私の補足です。
第7話:甲斐田町ブルース〜戦争直後の遊び方〜
(小学校)二年生になる前に引越しした。
甲斐田町の井出のおばあちゃんの一間や。春日町の家の子供が大きくなって手狭になったし、井出のおばあちゃんとこは市営住宅で二間の家や。
そやけどふた家族には変わりあれへんかった。
おばあちゃんには、航大君、通称”こうちゃん”と言う、僕より一つ下の孫がいててん。親が離婚したからおばあちゃんに養育されとってん。
そや、井出のおばあちゃんは、ずっと後でわかったんやけんど、オトンとおかんの仲人やってん。オトンおかんが困ってたから気い遣て(家に)招いたんちゃうかな。
こうちゃんとは仲が良かった。喧嘩なんか全然せいへんかった。
こうちゃんは優秀で後に阪大(大阪大学)へ行った。エバれへん(威張らない)し、そして優しかった。
今でも覚えてる。こうちゃんがハム持ってブラブラさせて、笑顔で美味しそうにほうばる姿が印象的やった。
おばあちゃんがこれまったシャープやねん。
生活の色んな場面で気遣い出来る人やねん。金ケ崎のおばあちゃんとはちゃう生き方やったけど、おれは尊敬してるおばあちゃんや。
おばあちゃんは産業経済新聞とってたな。今のサンケイ新聞や。連載してた少年ケニア(実在した漫画)よう読んでもうたな。
「サンダーラ山に巨大蛇ダーナが現れて ケニアはその頭に乗って 戦いに行くのであった ダダダダーン」
”ゼガ”と言うおっちゃんや”メアリー”言う金髪の少女も居てたな。
その時分、甲斐田町には都市ガス通って無かった。石油コンロ言う奴や。
それでも充分熱カロリーがあってんで。古う!時々芯を掃除せんなあかんかった。これがまためんどくさそうや。
そやけど熱源として炭を初めとして、練炭、豆炭がまだ主流やってんで。 五徳、七輪が活躍してたわ。七輪って知らん若者いてるで。
近所には友達も居てたな。隣には同級生の健君、弟のみっちゃん。ごまめ(関西弁で”のけもの”)の べっちゃん。斜め向かいには二つ上の田中のぐっちゃんが居てた。
皆んなで缶蹴り、釘差し、ベッタン、トンボ取り、コウモリ捕り、コマ回し、凧揚げ。正月には百連発の鉄砲遊びなんかようしたな。
ぐっちゃんとは白良川の土手に行って絵描きによう行った。川向かいにカラフルなとんがり屋根の絵になる建物があった。幼稚園かな?その絵今でも残ってるで。絵書くのん嫌いちゃうかったで。
授業中に描いた絵、「先生これもおとくわ(貰っておくわ)」やて。他に市長賞かてもうてんで。
ちょっと離れたとこの友達は、平くん、松本とおる君、大きな屋敷の伊集院君もよう遊んだ。
それから近所のガキらとジャッパン(?)したな。
”ジャッパン特急小便ごまかし有り”言うておもろかった。
”どんずりドッスン ムコウパーチ 食パン”言う技があったな。
それから、釘差し、ビーダン(ビー玉)、ベッタン、たからふみ、エスケン、缶蹴り、ボンサンガヘヲコイタ(坊さんが屁をこいた=だるまさんが転んだ)、台乗り、えとせとら(etc..)、遊び倒したわ。
ホッピング、フラフープが流行った。
『ホッピングは股と脚が悪なる。フラフープは腸が悪なるから止めとき』言うたな。
(小学生)3年の頃かな?ソフトボールするんで、オトンと土屋町にある ツジカ言う運動具店に行って、美津濃(現MIZUNO)のグローブ買うてもうた。
”ドロース”言うて、革クリームも買うてもうた。嬉しかったで。
キャッチボールはヤッサン(親友)の家の前の空き地でやった。甲斐田町病院に野球部があってん。オトンと応援に行ったな。
おれ応援のつもりで 相手のピッチャーに「ピッチャー渋いぞ」言うたん覚えてる。
ほんまは「ピッチャー あかんぞ」やのに。アワワ。
小学校の友達ともよう遊んだ。石田のマナブちゃん、木村君、大谷君とか。
白良川で魚捕りや、夏には水泳もしたな。あの時はほんま清水やった。今では信じられへん。
産業急成長直前やったからな。吉都線の機関車が長い貨物列車引張ってよう走ってた。流通産業もまだ鉄道が主流やったからな。
いっちゃん汚かったのがバブル期やな。ドブ川みたいやった。子豚の死骸も流れてた。中国のこと偉そうに言われへんで。汚染汚濁公害の先輩や!
あれはどこの小川かな?ザリガニ釣りに行ったな。
ザリガニの餌はカエルや。まずカエルを捕まえて、皮を剥ぐねん。これが難しいねん。
足の方からズルズルと剥くねん。そして足をもぎ取るねん。その足をタコ糸にくくるねん。ほてから川の中に吊るすねん。
暫くしたら足に食い付きよんねん。ザリガニはリユース(リリース)やな。ほんまは食べたいねんけど、『病気になる』言うてたんで我慢したな。
カエルの皮むき、残酷やとは思えへんかった。
イナゴを獲って焼くねん。芳ばしいてゴクッと喉がなるほどやねん。そやけどよう食べへんかったわ。今でもイナゴの佃煮売ってるけど、腰が引けてよう買わん。
蜂の子もや。あんなんウジ虫やん(゚o゚;;
カエルの皮むくくせに!
(第7話ここまで)
息子から
後半なかなかな衝撃の遊び方が飛び出しましたが、戦後の子供達にとっては至って普通だったそうで。
しかしジャッパンが、調べてもわからず。もし有識者の方がいらっしゃれば教えてください。
父のことで印象的なのは小さい頃から絵が得意だったこと。これは70才を超えてもいまだ健在で、元気がある時はたまに描いているようです。
そして70年ほど前の出来事なのに、人の名前を克明に記憶していることに驚きました。
"歳を重ねると最近のことよりも昔のことの方が覚えている"とはよ良く聞きますが、私の父はまさにそれなのだなと。
幼少期の記憶はまだまだ続きますが、そのまま掲載していければと思います。