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父、76歳の人生記-第10話:親友のヤッサン。-

はじめに

 このnoteを書いているのは、主人公”ぼんちゃん”、の息子です。
 戦後間もない大阪出身で現在76歳の父が、自身が年老いていくことを理解しながら、自身の人生を振り返りパソコンにしたためてきた文章。
 それを私が読みやすく校正し、名前や地名は仮のものに変えながら、ほぼそのままで掲載していこうと思います。
 父が辿ってきたのは波乱万丈の人生なのか、平々凡々な人生なのか、私も楽しみです。皆様も楽しんでいただければと思います。
※”()”は私の補足です。

第10話:親友のヤッサン。

 友達はすぐに出来た。
ヤッサンや。学校で遊んだけど帰っても一緒やったな。 
今から思たら何でヤッサンと友達になったか、接点がよう解らん。多分遊び好きやイタズラ好きなとこが合うとったんやな。
 上池温泉によう行ったな。ヤッサンとこは家に風呂あるのに何でや知らんけどわざわざ上池温泉に来てたな。一時間は軽く入ってたな。おれらの憩いの場や。
 当時は風呂代6円やった。風呂での想い出もぎょうさんあるわ。
男湯と女湯の境に水槽あるねん。その水槽に潜って遊ぶねん。こんなんする奴、風呂屋始まって以来のことやろな。ホンマいちびりや!
 中学生になっても6円で行ってた。チビやったからや。そやけどいつかばれてもうた。

 甲斐田病院。当時は湊脳病院言うてたな。いま脳病院言うたらえらいこっちゃで。
 
そこではロビーにはテレビ置いてあって、相撲場所になったら皆んな見に行ったな。当時テレビのあるうちはエエシ(良いところ=お金持ち)の家だけやったもんな。臨時エンジョイサロンやな。2,30人は来とったな。
 当時背の高っかい大内山、外掛けの琴ヶ浜、技巧派の栃錦、ガリガリで独特の仕切する安念山…やったかな?鳴門海かな?胸毛の濃おい朝潮、筋肉質の豊登、ふっとい鏡里なんかが居てたな。
 おれは男前の吉葉山のフアンやった。相撲はそんなに強なかったけど不知火型の土俵入りが断然格好良かった。他の奴は無難な曇竜型や。おれ相撲通やな!? 

 病院に新病棟が出来た。
トイレに入って用を足して水洗のペダルを踏んだはええねんけど止まらんがな。じゃーじゃー水が流れるし慌てておとんの事務所へ「水止まれへん」 言いに行った。おとんが駆けつけた時にはすでに水は止まっていた。生まれて初めての水洗トイレ体験や。

 ある日ヤッサンと由良にあるローラースケート場に行ったな。
友達とバスなんかに乗って遠出したんははじめてや。ヤッサンが慣れとったから不安は無かったな。
 おれ生まれて初めてのローラースケート体験で怖いやらおもろいやら。スケート場では俺が転んだ時おねいちゃんが上を跨いでスイスイと滑るように通過しよったしていったな。
 帰ってくるのん遅かったからオカン心配してたな。ヤッサンは『遅いって怒られた』言うてたな。
 この日の体験からスケートが俄然好きになり、ローラースケートおねだりして買うてもうた。

 そして甲斐田病院のつるっとした敷地を思い切り滑った。最初はヤッサンと二人やけど段々仲間が増えてきた。ガーガーと病院もやかましい時があったと思うけど放任しとったな。
 スケートの車輪のべアリングにはボールベアリングとローラーベアリングがあってボールベアリングのほうが高級で高価やねん。おれのはローラーベアリングで安モン。ローラーベアリングは早よチビる(劣化する)ねん。

 病院の中もええ遊び場やった。
 バッ缶(大きな容器)運搬の車を集める倉庫みたいなとこあって、その中の二階に畳引いてあって、そこが遊び場や。
 多い時は4,5人でワーワー言うて遊んで、おっちゃんが車を直しに来たら みんな沈黙。 シーー バレへんかったかな。
 それからヤッサンと難波のアイススケート場へよう行ったな。ヤッサン上手かった。バックもいけてたしクロスもでけてた。おれバックの8の字書くのん必死になって練習した。そやけどヤッサンみたいにええフォームでなかなかすべられへんかった。あのセンスは天賦の才が要ってんな。アイススケートはもう一寸おおきなってからかな!?

(第10話ここまで)

息子から

 ヤッサンは76歳の現在でも父の親友なので私も知っていて、興味深い話でした。
 さて、地名や人名は仮のものを使っていますが、力士の名前と”難波”はあえてそのままにしました。たまには子供同士で都会に足を伸ばしていたんだな…なんて。私も小さい頃は親に内緒で難波に行ったりしており、そんなことを思い出しました。
 今回も幼少期の記憶力は抜群の父から、風呂屋が6円だったり、意外に詳しかった相撲、病院での思い出などが飛び出しました。
 昔は用事もなく、テレビを見たり遊び場として病院が使われていたんでしょうね。やはり今では考えられませんね。
 脳病院という呼称も、私の記憶に本当にうっすらあります。今は精神科と名前が変わったのですが、実は大阪でも有数の歴史ある精神科の病院として今でも存在しているんです。
 ぼんちゃんの父、つまり私の祖父はそこで働いていたのです。…この半生記を読むまで知りませんでしたが…。
 ここまで読んでくださりありがとうございました。コメントやスキをいただけると励みになります。


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