父、76歳の人生記-第18話:高尾のみんなとピヤピヤと。-
はじめに
このnoteを書いているのは、主人公”ぼんちゃん”、の息子です。
戦後間もない大阪出身で現在76歳の父が、自身が年老いていくことを理解しながら、自身の人生を振り返りパソコンにしたためてきた文章。
それを私が読みやすく校正し、名前や地名は仮のものに変えながら、ほぼそのままで掲載していこうと思います。
父が辿ってきたのは波乱万丈の人生なのか、平々凡々な人生なのか、私も楽しみです。皆様も楽しんでいただければと思います。
※”()”の中は私の補足です。
第18話:高尾のみんなとピヤピヤと。
高尾の家(ぼんちゃんの親戚の家)。
夏休みなんかはほとんど入り浸りやった。学童保育さながらや。
信ちゃんは二つ年下。篤くんは四つ年下。あとで景子ちゃんが出来る。
ときどき隣のおっちゃんの子供で、鉄ちゃん、裕和ちゃん、マミちゃんが加わり賑やかやった。
朝ごはんは茶お粥さんやった。お漬物でいただくねん。
お粥さんはあっさりして口当たりがごっついよかった。白お粥さんとはひとあじもふた味もちごたな。
信ちゃんとはよう遊んだ。
家の中はもとより夏には縁台出して遊んだ。漁船が浮かんだ川べりを永正小学校らへんまで行ったな。篤くんはまだ幼かったからごまめやな。
お風呂がええねん。五右衛門風呂や、よう沸かしたな。薪ををくべて、火吹き竹で息を吹くねん。入る時が大変やねん。円形の板を上手いこと底に沈めてセットせんなあかんねん。気持ちよかったで。
縁側でかてよう遊んだ。夏休みには夜市があるねん。
その時は花火大会があるねん。ドッカーン、どっかーん、シュルルルボッカーン!大迫力や。
いつやったかな、浜まで歩いて行ったな。砂上映画しとんねん。それに舞台があってん。カシマシ娘がゲストで来とった。
♬うちらかしまし娘 女三人寄ったら かしましいとはゆかいだね
ベリーグッド べりーグッド それでは皆さん さよ おーなーらー♬
ふとん太鼓の祭があるねん。
宮島、淀、西淀、東淀。一台の太鼓に血気盛んな四,五十人の男衆が担ぎ手やねん。町内を練り歩き、
♪よいやまかそこじゃいな よーいやせえー!♪
掛け声が良かったな。ようさん太鼓揺らし、総がぎょうさん揺れたほうが格好ええねん。
5,6年生までは勇猛果敢やったけど、埋め立てが始まり、漁師のひとは漁業補償もうたんや。それで家新築したりしてたな。だんだんと担ぎ手がのうなった。衰退期や。しまいには台車に太鼓乗せてだんじりみたいに引っ張ってた。みすぼらしくて情けなかった。
漁師の家では赤貝を剥いてた。道路際にいっぱいに広げてた。皆んな黙々と仕事してた。
高尾の家の道路の向こうに旭川があってん。川には漁船がぎょうさん並んでた。船は穴子取りの船や。あの当時豊漁やってんな。
鷺橋のねきに穴子寿司の有名な店がある。”ふかそう”か、”ふかせい”かな。このまえ買いに行ったけど、タッカイワ。一人前1500円してたかな?せれぶ御用達やな。
さきちゃんが河中へ嫁いでから米屋へかてよう行った。その店に米屋が納品してた。おれ米屋でアルバイトしてたからちょいちょい配達にいったで。
寿司米は新米と古米の混合比が難しいねん。もっちゃん兄ちゃんはその塩梅ようわかっててん。米の産地、米の出来具合に精通してんねん。
もっちゃん兄ちゃんは酒飲みや。年末の忙しい時は昼から飲んでた。
「カブにもガソリンいるけど 俺もガソリン要るわ」言うてたな。
小金もあってんな、店に証券マンがよう来とった。
人の面倒も見るのん好きやった。よその家で不幸あった時なんか、葬儀屋の手配やら役所の手続き。町内の小さな揉め事苦情なんか話聞いとったな。
そんな或るとき、「市会議員に出る」言うたけど、嫁さんのさきちゃんや、信ちゃんおっちゃんの強い反対があって断念したな。
俺も『能力的にはいけるけど、米屋して二足の草鞋履くのん難しい』とおもた。
もっちゃん兄ちゃんは4人兄弟の長兄や。親を亡くしてるから自分が養わんなあかんねん。そやからよう頑張ってたんや。
元気いっぱいのおっちゃんやったけど、酒飲みすぎて肝臓壊して労災病院に入院した。暫くして亡くなった。
夏休みで高尾の家で泊まる時は寝るときに腹巻をした。
夜は気温が下がるさかいや。帳も吊ってた。入るときうちわでパタパタして蚊を追い散らすねん。中へ入ったらひらひらうちわであおいで気持ち良かった。
信ちゃん、篤君寝かしつけるとき「はよ寝んなピヤピヤ来るで コワイで」いうて寝かしつけたな。あの時は温暖化の”お”も言うて無かったわ。
それからだいぶしてから従兄弟同士で正月にミナミへ繰り出した。
千日デパートの子供娯楽場へよう行ったな。コイン落とし、擬似ドライブ、馬乗りロデオ、人形つかみ等など。
帰りは決まってハツセの食堂に寄った。地下に降りていくとおっさんがグワンーとドラを鳴らすねん。おれは中華そばか助六頼んだな。
中華はまた大きい丼鉢に入ってるねん。腹いっぱいになるねん。メンバーはきいちゃん、信ちゃん、篤君、おれや。
篤君はちっこいから中華そば、フーフー言うて汗かいて食べてたな。
そや。おかんと難波の高島屋へ買いもんに行った時や。ご飯食べて帰るねん。
うなぎのいずもやでは店先でうなぎさばくねん。うなぎの頭に鉄槌をガーン。腹をさいても体ピクピク動いてんねん。旨いなあ鰻丼。甘さと辛さの絶妙なバランス。
ハツセは地下に降りていくねん。へてから蓬莱へ寄ったな。蓬莱では焼きそばが美味かった。豚まんも美味かったな。何でや知らんけど豚肉のスペアリブとか海老チリ、酢豚なんか注文したことないわ。高いのんはご法度やってんな。
蓬莱の道を隔てて中華屋があんねん。あんまり流行ってない店やけど、店の構えが中華屋らしいねん。いっぺん入ってみたかったな
気にしいは染みついてるわ。
高校ぐらい迄は親戚のおっちゃんおばちゃんに、食堂に行って「好きなん言いや」って言われても、おれはいつも食べつけてるきつねうどんか、その時の雰囲気でせいぜい玉子うどんや。
おっちゃんおばちゃんがホンマに金持ってそうな時はせいぜい肉うどん注文するぐらいやった。
働いてからも先輩上司におごってもらう時でもそうや。ばぎょーんと日頃食べた事の無い高い奴はよう言わんかった。
高いもん言うたら「調子もん」や思われんの嫌やし、相手の懐気にしてよう言わんかった。
ああ、もっと素直になれたらええのに。
あかんわ、大物になられへんわ。当たり!チャンチャン!
鉱石携帯ラジオが出た頃、おかんに高島屋でゲルマニウムラジオ買うてもうた。結構高かってんで。
おかん無理してよう張り込んでくれた。嬉しかった。よう聞いたな。そやその時分から100円均一があった千日百貨店やな。
いつか、いとこのはっちゃんと難波へ行った。ほんまにちっこいスーパーがあってチッチャイチーズがあってん。よう流行ってる店やし、どさくさに紛れてそれ、はっちゃんといっこパクって食べた。
石鹸みたいな味や言うてたけど似て非なる奴や。旨い。舶来の味やなあ。
パクリはそれでおしまい。はっちゃんと一緒やからいちびり半分やな。
(第18話ここまで)
息子から
ぼんちゃんこと、父の親戚のつながりは、息子の私も現在ではよく把握しておらず。
もしかしたらこの後疎遠になってしまうのかもしれません。
私が遠い幼少期の記憶で思い出したのが『ピヤピヤ』。眠れない夜に、父からよく「ピヤピヤが来るから寝るんやで」と言われた事を思い出しました。果たして何なのかはわかりませんが、それでスッと寝られていました。
温暖化もなく、五右衛門風呂があり、砂上映画に千日デパートや鉱石携帯ラジオがあった時代。そしてその時代から今も変わらない父の「気にしい」な性格は、しっかりと私にも遺伝している気がします。
まだまだ続くぼんちゃん劇場、また次回も読んでくださると嬉しいです。