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父、76歳の人生記-第14話:タフなオカンと変わった僕の友達と。-

はじめに

 このnoteを書いているのは、主人公”ぼんちゃん”、の息子です。
 戦後間もない大阪出身で現在76歳の父が、自身が年老いていくことを理解しながら、自身の人生を振り返りパソコンにしたためてきた文章。
 それを私が読みやすく校正し、名前や地名は仮のものに変えながら、ほぼそのままで掲載していこうと思います。
 父が辿ってきたのは波乱万丈の人生なのか、平々凡々な人生なのか、私も楽しみです。皆様も楽しんでいただければと思います。
※”()”の中は私の補足です。

第14話:タフなオカンと変わった僕の友達と。

 オカンにはよう一緒に土屋町の市場に連れて行ってもうたな。
 生鮮食品揃える唯一の商店街やから、その近所に東京屋ちゅう服屋が出来てん。今でいうユニクロや。
 安くて大流行りや。そこでセーター、シャツ、ズボン、靴下なんかよう買うてもうた。 ”文久”言う陶磁器屋があって、そこでもよう買うてたな。
 時々喉に骨が刺さって、それを取るため宮里耳鼻科へようつれていってもうた。桐谷電気も行ったなあ。そうや丸高靴店もこの並びにあってん。
 喉に骨刺さるんはフッ君(私=息子)に引き継いだな。フッ君はあのうまい国民的絶賛のうなぎの蒲焼食べて、「うなぎの骨刺さった」やて。それ以来 うなぎ食べよれへん。けったいなやっちゃ!
 
 オカンはタフやってんな。
新たに阪湊マーケットができた。テクシー(てくてく歩いていく)で行きよんねん。20分位い掛かったかな。土屋町より品数も揃ってるし安い。
 それにサービス券がついてるねん。今で言うポイントや。よう買いに行ってた。サービス券溜まってオカン喜んどった。
 「日帰りバスツアー」があったな。おれもサービス券貼るのん てつどうた。(手伝った)いっぱい溜めておかん満足げやった。

 待望の自転車買うてもうた。
 
土屋町の自転車屋でや。がっしりした婦人車や。今で言うママチャリや。ライトも付いてた。ちょっと大きなってからパンクも直すようになった。これで遠いとこでもチリンチリンと行けるやん。
 そうや自転車の練習は信ちゃんとこの自転車でしたな。
 子供用自転車無かったから、おとなの自転車に乗ってこぐんや。”丁稚乗り”いうて自転車斜めに倒してフレームの間に片足通してギコギコ半こぎするねん。”三角乗り”とも言うねん。結構いけてんで。

 おれも一人で土屋町へ行ったで。
 お菓子屋やねんけど店の奥の方に模型売ってるねん。木製の汽車とかトロッコなんかが目当てや。アナログ派やな。
 そう、プラモデルは性に合わん。一個は作ったけどなんや機械的でおもろうなかった。デジタル派ちゃうねんな。
 そうそう、組立用の模型グライダーやゴム動力の模型飛行機なんかがほしゅうてよう通うた。模型飛行機はよう買うたな。ゴムを長ごうにして飛行時間を長ごうにするのん工夫したな。店主がぼうず頭でギョロ目のオッサンやねん。

 何年生の時やったかな、オカンに映画に連れてもうた。
 市役所の近くの映画館で戦争映画の鑑賞や。我が軍の小型戦闘機が撃たれて墜落する時、操縦士が「お父さんお母さん さようなら」って言って操縦桿握ってたな。そして敵艦目がけて撃沈するねん。おれ、切なくて悲しかったで。
 それから湊(地元の街)にしては一寸ましな映画館ができてん。中央劇場いうて、なかなか湊にしたらやるやん。ほんまやで。文化砂漠地帯の湊にやで。
 オカンと観にいったのは「十戒」(1956年公開)や。大スペクタクルの映画や主演はチャールトンヘストンやったかな。モーゼが手にした杖をドンと地面をつけば川が二つに割れて軍隊が進むんや。でっかい画面に惹きつけられとったな。感動ものやった。この映画今でも充分鑑賞に耐えうる作品や。

 それから小学5年の時や。大友君と遊んでた時、右肘を骨折脱臼した。
 一ヶ月間ギブスはめて固定しとかんなあかんねん。大友君はいろいろ気遣ってもらって、カバンを持って通学してくれた。
 その大友君、中学校のとき勉強上達術の道具持ってた。
 金属製でメッキが綺麗やった。片手でカチャカチャすると単語の英訳が出てくるやつ。と言っても自分で書くんやけどな。
 そいつを購入して、あほ海馬の俺は助かったかな。
 そや、右腕ギブスしてたから字書くのん大変やった。左手で書くのん必死になって練習したわ。

 一人遊びもしたな。自立出来てんな。
 大阪高島屋の屋上で遊んだ。小遣い貯めて難波まで行って。そこでかて友達出来たな。その子そんなに身なりええことないのに金は持ってたな。大阪の子や。

 西田君とコーヒーについて共同発表した。よう頑張ったやん。
 コーヒーの生産から消費するまでのプロセスと生産量とか。それと嗜好についてかて調べたかな。全紙一面に文字で説明して。イラストも描いたな、大作やった。
 西田君もおれもご満悦や。先生にかて「労作や」いわれた。
その後、西田君はネフローゼに罹って労災病院へ入院した。病院へ見舞いに行ったなあ。おれと同じ位の背丈やったけど、ごっつい大きなってたな。
 そやけど無口になってた。あのときの柔和な感激の表情なんか見当たら無かった。忘れてたんかな。冷ややかなんで怖かった。人間て怖いわ。あんなけ仲良しやったのに。今では全く他人のフリ。おれ病気が成せる技と理解したけど、怖かった。
 後からおもたらセイチョウキと重なるねん。そやし、しんどかったんかな。しゃあないか。そうか。オレもっと早ように見舞いに行けへんかったからかもや。おれが悪かったんかな!?

 はっしゃんが凄い。
 5年か6年のときや。先生が「国連の事務総長はだれや?」ってみんなに質問したら暫くだれも答えへんかった。ポカーン状態や。
 がっ、はっしゃんがおもむろに答えた。「ハマーショルド事務総長です」やて。
 皆んなシーン。誰も知らなんだからや。エライ。皆んな国際事情なんかどうでもええ世界に生きてたんやから、先生もびっくり。家ではフランス語も勉強してたんやて。いやはや。   

 東原えいけん君が居てたな。
 ええ暮らしちゃう在日の子や。ええ子やったけどニンニクの匂いがあかん。みんなと積極的に友達関係結べへんかったな。6年やったかな、韓国へ還った。「お父ちゃんが将校してたけど戦死した」と竹井先生が言うてたな。
 素直な子やったからもっと話しといたらよかった。席が隣になったのに。 そやけどニンニクの匂いと韓国人と言う理由で拒否反応してたんやな。
 今や”王将の餃子”、おれが作る”アヒージョ”、ニンニク大好きや。

 水源地の花見。市立や。
ツツジがいっぱい咲くねん。白良川のへりにあるねん。見事なもんや。そこへ敷きもん敷いて、酒飲んで歌ってるのが、韓国朝鮮の人や。 
 ♫ トラジ トラジ ♫ とか ♪ア~リラン ア~リラン ア~ラリア♪
って歌うとてたな。皆んな白いチマチョゴリ着てた。ほんま楽しそうやった。
 ここの職員はええねん。日頃バタバタせいへんから。
 ソフトボールしたりツツジの世話してたらええねん。楽や言うてたで。ほんまは口外御法度やけどな。おれも本庁や南分室にいた時かてようにたことあったわ。良き時代の湊市や。

(第14話ここまで)

息子から

 さて今回もたくさんの登場人物が出てきましたが、覚えなくても、覚えていなくても読めるかと思います。
 まず、私の幼少期の思い出が出てきましたね。確かに「うなぎの骨が喉に刺さった」と泣き叫んで鰻がトラウマになりました。成人してからは克服しましたが、あの恐怖と痛みは未だに覚えています。

 父は父で、戦争映画に対する感傷的な気持ちや、入院を機に疎遠になってしまった西田君に対する悲しみなど、辛い感情もしっかりと経験した幼少期だったことがわかります。
 ただたくさんの友達とのエピソードをこうして思い出せているのは素晴らしい事だな、と。

 戦後間もない頃の韓国、朝鮮の方々に関する話題も少し出てきましたね。父の日記ということもあり、あえて原文載せております。ご了承いただければと思います。

 さて、次回もまだ小学校の友人のエピソードが続きます。それだけ濃かったんでしょう、ぼんちゃん劇場、次回も是非御覧くださいね。

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