私の父、76歳の人生記。-第5話:幼少期のぼんちゃんと医者になったたまちゃん。-
はじめに
このnoteを書いているのは、主人公”ぼんちゃん”、の息子です。
大阪出身で現在76歳の父が、自身が年老いていくことを理解しながら、自身の人生を振り返りパソコンにしたためてきた文章。
それを私が読みやすく校正し、名前や地名は仮のものに変えながら、ほぼそのままで掲載していこうと思います。
父が辿ってきたのは波乱万丈の人生なのか、平々凡々な人生なのか、私も楽しみです。皆様も楽しんでいただければと思います。
※”()”は私の補足です。
第5話:幼少期のぼんちゃんと医者になったたまちゃん。
幼稚園は橋本幼稚園やった。
おもろい話があるねんで。入園式やったかな。おかんに連れられて行ったんはええねんけれど、おかんが帰る前に俺が先に帰っててんて。キャアー!
おかんと心理的物理的に母子分離でけてへんかってんな
幼稚園の先生は優しかったで。”井口先生”いうて、可愛がってもうた。何や初恋の人みたいやった。
小学校は橋本小学校やった。
担任の先生いうたら、演技派の俳優みたいに渋みのある藤木先生やった。 小学校へ行くまでにかなり広い空地があって、そこでは模型のエンジン機を飛ばしとった。
おれ操縦桿握りたかったな。滑走、離陸、グーンとスピードが出て圧巻の宙返りや。エンジン冷却用のヒマシ油かな?油の焼けた匂いが、これまった、たまらんかった。
小学校の淡い想い出もあったな。
”三井さん”いうて凛々しくて美人で背が高くおとなしい子やったな。そや、伶俐、楚々としてる感じと表現でける(出来る)な。
同じクラスの”山本くん”いうて、ちっこいけど算数の計算はようできるし、字もスラスラ書きよる子が居てたな。”利発そうな子”いうやっちゃ。鼻垂らしてたけど。
三井さん家の近くに進駐軍のジープ(戦後 米軍のジープ)きてたな。お菓子もうたん覚えてる。
それから近所に”高瀬”いう奴が居てたな。
ちょっと顔もトークもクセのある怪しい奴や。そいつとは本気で遊べへんかったな。子供心に危ないもん感じてたんやな。
雄介さん(同居していた叔父)と、ようキャラメル買いに行ったなあ。
あれは春日町駅の踏切を渡って、女学院の傍の上品なお菓子屋さんや。
お目当ては雪印バターキャラメルや。時々欲しなるねん。舌にトロける絶妙な味わいや。
台風が来たな。強力台風。ジェーン台風や。
家の陽差しが崩れ落ちたな。ドドーン!バリーンと大音響やったから怖かったん覚えてる。台風去ったあと庭が水浸しでアメンボウが泳いでたな。
歯抜け。上の歯抜けたら庭の地面に放った(放り投げた)。
下の歯抜けたら屋根に投げた。”ええ歯 生えて来い”やな。グラグラの歯は 指で動かしてもあかん時、動いてる歯に糸巻いてギシギシ引っ張るねん。
痛いのん一瞬。血が滲んでポロッと取れるねん。
そや。景ちゃんとはよう遊んでもうたな。湯田池ではボートに乗せてもうたな。そやけど俺が怖がるん見て、おちょくってよう揺らしてたな。
景ちゃんは大きくなって結婚して、子供が出来て。子供の名前が”たまちゃん”いうて。その後、おおきなって豊津中央病院の外科医になった。ハトコで初医者や。その後続々誕生や。医者が6人と歯医者が1人や。
たまちゃんの進学熱やけど、”和田野中学から祐天寺高のエリートコース”ってのがあるねんけど、和田野中学へ入れるため川口のおばちゃん(ぼんちゃんの父の姉。幼少期に同居していた)は津久野斎場近くにアパートを借りて、たまちゃんの自転車置いたり、おもちゃ、布団、生活痕なるものを散りばめとった。
実際たまちゃんは学校の帰りとか日曜日には遊びに行ってたんやて。典型的教育ママとそのばあちゃんやな。
(第5話ここまで)
息子から
今回も、父が70年ほど前の記憶を辿りながら綴っているということで、話があっちへ行ったりこっちへ行ったり…さらに人物名もたくさん出てくるので、ややこしい部分も多々あるとは思いますが、ご了承くださればと思います。
”進駐軍のジープ”、”雪印のバターキャラメル”といった、昭和時代ならではのワンシーンも出てきつつ、今の子どもたちとさして変わらない幼少期を過ごしていたんじゃないでしょうか。
…私も歯が抜けた時は、父に『屋根におもいっきり投げるんやで』と言われて育ちました。懐かしい。。
もしこの記事を読んでくださっている方がいれば、コメントもくださると嬉しいです。おもしろがってくれているのか、そこも教えてもらえればと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました。