追分宿と飯盛女と「五倫の道」
江戸時代の五街道を中心に、昔ながらの宿場町が点在しています。長野県では奈良井宿、馬籠宿、妻籠宿などが有名ですが、中山道の追分宿(長野県佐久郡軽井沢町)もそのひとつです。当時の面影は部分的にしか残っていませんが、暮らしの様子は「追分宿郷土館」で知ることができます。
当館資料によれば、貞享(じょうきょう)年間には、ここには旅籠屋71軒、茶屋18軒、商家28軒があったといい、次の元禄時代には152件まで戸数が増えたといいます。追分宿は、本陣(大名が宿泊する場所)を抱える活気ある宿場町だったようです。
追分宿も飯盛女で栄えた
当時の人口は900人程度、女が男よりも200人多かったといいます。その理由は旅籠屋の「飯盛女(めしもりおんな)」がいたためだとか。飯盛女は、またの呼称を宿場女郎とする私娼です。NHKの大河ドラマ「べらぼう」には、「飯盛女」がいる近郊の宿場町に客を取られ、天下のお墨付きをもらう吉原存亡の危機が描かれています。
今でこそ世界から観光客を惹きつける軽井沢ですが、江戸時代は雑穀程度の収穫物しかない寒村で、唯一、この宿場町が経済を回していたようです。もっと言えば、「飯盛女」あっての経済だったのかもしれません。
さて、各宿場町には、板に筆で書かれた「定(さだめ)」というものがあります。
「五倫」とは人間関係の心得
「定(さだめ)」には次のようなことが書かれています。
一、人たるもの五倫の道を正しくすべき事
一、鰥寡孤独廃疾 (かんかこどくはいしつ、 親族が誰もいない身寄りのない人や不治の病を持つ人)のものを憐れむべき事
一、人を殺し家を焼き、財を盗む等の悪業あるまじく事
現代の日本社会にも通用する「定」だと感じます。筆頭の「五倫の道」は儒教の根本教義ですが、少なくとも当時は宿場町においても「五倫の教え」が浸透していたことがわかります。
この「定」は奈良井宿にも見ることができます。当時、どの宿場町にもあったのかもしれません。
ちなみに「五倫の道」とは「人間関係のベーシックな心得」みたいなものです。
①父子の親=父と子は親愛の情で結ばれなくてはならない。
②君臣の義=君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。
③夫婦の別=夫には夫の役割、妻には妻の役割がある。
④長幼の序=年少者は年長者を敬い、したがわなければならない。
⑤朋友の信=友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。
シンガポールは東西文化融合型で発展
一方、この「五倫の教え」は、江戸幕府の支配者にとっては身分制度を維持するためにも、都合のいい教えだったといわれています。また「封建的な旧い考え方」と捉えられがちですが、現代の東南アジアにおいてもこの思想は生き続けています。
シンガポールの初代首相リークアンユー氏も「五倫の教え」を重視しながら、英語教育に力を入れ、国を発展させました。言ってみれば「東西文化の結合スタイル」と言えるでしょう。
台湾でも、妻の献身による円満な家庭をベースに夫が事業を成功させ、子どもたちに優れた教育を与えることに成功して事例があります。
子どもは米国留学で最新のモデルや技術を学び、言語を含めて米国の影響を受けますが、しかし無意識下に「五倫の教え」を踏襲するかのような行動が散見されます。
今年の春節、台湾の友人から「家族や親戚や友人ととにかくみんなで集まって食べています!」といったLINEが送られてきました。
それを読みながら、新春の「月曜から夜ふかし」でマツコ・デラックスさんが、日本の正月の過ごし方が「正月らしくない」と嘆いていたことを思い出しました。思えば「福笑い」も「カルタ」も、家族とともに楽しむゲームでした。
過去には「五倫の教え」は為政者(あるいは家長)に都合のいい統治のための封建的な思想だったのかもしれませんが、人間関係を大切にしながら、豊かな家庭(教育環境)、事業の成功を実現する現代のアジアの友人たちを見ていると、必ずしも道具としての思想ではない一面が見えてきます。
ちなみに、私の家から最も近い宿場は、江戸日本橋から数えて次の内藤新宿(ないとうしんじゅく)です。
今の新宿1-3丁目で、歌舞伎町一丁目を含む新宿通り沿いが内藤新宿に当たるといいます。2020年代、この界隈は外国人観光客、「高収入」を当て込む若い男女、行き場を失った子どもたちがうごめいています。
ここもまた新たな文化とともに宿場の歴史を刻む1頁となるのでしょうが、地元民にとっては近寄りがたい空間となってしまいまったことが残念です。