「意識」という映画を見る物理的存在の脳
お母さんは赤ちゃんにレモンを舐めさせてみた。
赤ちゃんは思いっきり顔をしかめて泣きそうになった。お母さんは笑ってそのレモンを取り上げ自分の口に近づけた。それを見て赤ちゃんは心配そうな顔をし、お母さんが口に入れた瞬間に顔をしかめてやはり泣きそうになった。しかし直ぐに目を見開いて驚いた顔をした。お母さんがレモンを美味しそうに食べてしまったから。
レモンを口に入れ顔をしかめるのは物理的反応。お母さんがレモンを舐めるのを見て顔をしかめるのもミラー細胞による物理的反応。しかしその物理過程を超えたものが目の前にいる。自分の脳を超えた存在、予測通りに動いたり予測を裏切り自分とは独立に行動する存在、外見的行動しか分からないが、能動的な「意識」を持って行動をするように見える存在がそこにいる。それが他人。そして生まれて初めて接する他人はお母さん。脳という物理的存在の中に「意識」というプログラムが走り始める。
お母さんは赤ちゃんの驚いた顔を見て笑った。自分の行動にお母さんが反応する。その反応に自分も反応し、またそれにお母さんが反応する。お母さんを意識的行動をする存在として捉えたように、お母さんが自分の行動から自分を意識をもった存在として捉えているとお母さんの意識的行動の中に捉える。まるでそれは自分がレモンに対して反応したことと同様のことをお母さんがレモンに対して反応すると感じて自分が反応したように。
以前に私の主催する「自然科学カフェ」で理化学研究所脳科学研究センター・学習理論/社会脳研究チームの中原裕之チームリーダーにお話して頂いたことがある。中原さんによると人は自分の脳の中に他人の行動に対するシミュレータを形成し他人の行動を評価することがfMRI画像解析から明らかになったとのことである。とすると他人の中にも自分に対するシミュレータができていることをも自分の中にシミュレーションするのではないだろうか。
お母さんに始まり多くの他人と接することにより自分の中に他人から見た他人としての自分の共通項が形成されていく。個別ではあるけれども共通項を持つヒトとして。それは事物に対する他人の価値判断のシミュレータとなり自分の価値判断との比較が行われ、つまり事物に対する「認識」となる。そしてそのシミュレータは他人と間のコミュニケーション手段「コミュニケータ」となる。
このコミュニケータは常にシリアル通信である。膨大に並列処理される脳内の物理的反応を全てを伝える必要はない。時系列的なストーリーとして他人との間に互いに表現される。実際、自分自身の意識的状態を思い返せばそれは常にシリアルである。脳の中のあらゆる並列的神経活動から他人へ伝えるストーリーとしてシリアルな物語が抽出される。これがリベットが実験で明らかにした無意識脳活動から意識への0.5秒の遅れだろうか。
ストーリーといえば映画
他人を見ているとき、実在の他人だけではなく、映画の主人公を見つめているときでも、自分の意識を通して見ているはずなのに自分は消えている。意識をしている意識も消えて主人公に乗り移っている。そしてふと我に帰る。我に帰ったとき見ているのは自分だろうか。実はこれも映画を見ている時と同じではないだろうか。脳という監督、脚本家がリアルタイムで作成してる「自分」あるいは「意識」という名のメーキング映画をLIVEで見ているだけではないだろうか。脳という物理的存在が自分だと思い込んでいる自分の中の映画を見ている気がしてならない。ただし、デカルトがいいうように見ているものが松果体の中にいるわけではない。脳が映画を見ることができるように脳は脳自身の中の映画を見ているという脳の物理過程でしかない。意識とは意識されたものである。どうでしょう?