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目の前のやるべきことには手をつけず、ここに来る理由。

とても久しぶりにnoteに来た。特に誰の記事を読むわけでもないけど、TwitterやInstagramを徘徊するより精神衛生がいいかなと思って手を進める。

きっと誰かの記事を読めば、そこには世界が広がっていて、見たことのない景色、聴いたことのない言葉、触れたことのない考えに出会える。
それと同時に羨望や嫉妬が顔を出す。素直にいいなと思えればいいのに。

出会えば私の中のサブカルチャーが増えるかもしれない。帰属が増えるかもしれない。可能性は無限大だと思わせてくれるのが、誰かの文章であり、経験であり、勝手に私にうってつけの言葉だと捉える「助言」じゃないのか。
出会うだけの体力がない。出会いは準備されたものより偶発的なものがいい。まるで白馬の王子様が現れるかのように。

SNSを見ていてもそうだ。知り合いのアカウントはほとんど見ない、フィードに流れてくるものだけチェックする。あとは勧められるがままに見て、くだらないなと思いながら何時間もスワイプする。いいものがあればフォローするし保存するし、いいねを飛ばす。素直に慣れたらそれが一番楽なのに。

匿名だろうが実名だろうが、不特定多数を相手にするなら見栄を張りたい、そう思うのが私。せっかくなら好印象を持たれたい。等身大の方がいい?等身大なんて誰が知ってるんだ。私だって背伸びした私しか知らない。実サイズより1,2センチ高い。

こんなことを書いたって目の前のやることは終わらないし、時間が経っていくだけ。そんなことは知っている。だけど書かずにはいられない。今思ってること、「今」と打ったらスマホでもないのにPCが時間をサジェスト表示してきたこと、これからどうせ朝の5時までPCに向かって終わらないレポートを書くこと。
今週もまたギリギリな生活をするんだ。社会に出たらどうなることやら、無事に生きていけるのかしら。不安でならない。

レポートは書くことが分かっていても気が進まない。やれば終わるのに、今この瞬間始めれば1分でも、いや1時間早く床につけるというのに。
構成も紙に書き出して、準備万端だというのに。
歴史をまとめるのはやっぱり気が進まない。自分の言葉で紡げるものではないから。どこかの歴史を誰かが調べたものをまとめなおす、誰が読むか知らないのに。歴史は間違っちゃいけない、嘘ついちゃいけない。誰かが作り出した嘘が歴史になっているかもしれないのに、憶測で話をしてはいけない。通説に従わなければならない。

そのくらい頑張れよって3分後の私が書く。こだわりぬくから仕上がるのが遅くなる。こだわりたいならスタートはいまだ、タイミングを作るのはいつでも自分。

ほら、作ったから。そのまま投稿して、Word開いて、資料をPCの横に積んで。
健康的な生活を手に入れよう。暗いうちに布団に入ることが目標だ。

ここに来たって何が解決するわけでもない、やることが終わるわけでもないし、なんならここに時間を割いている。何を書こうか考えて、あーでもないこーでもないって思いながら見返さずに書ききっていく。

それが私なりの覚悟の決め方で、自分との対話で、必要な時間なんだと思う。
紙に書くのとは違って、直感でそのまま打ち込めるからPCでつける日記みたいなものも楽しい。文字を書くのもいいけど、やっぱりタイピングの方がカッコいい気がする。

今日も早く寝ような(フラグ)

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