VARIETY Zendaya on the Trick Behind Her ‘Challengers’ Tennis Moves and Taking Charge of Her Career: ‘There’s No Lip Service When You Have the Producer Title’ 素人日本語訳


↑元記事のリンクです。

『ゼンデイヤ、出演作であるテニス映画「チャレンジャーズ」の秘密と、自分でキャリアの主導権を握ることについて語る。「プロデューサーという肩書を持つ以上、口先だけというのは許されない。」』

『テニスを会話するような感覚で見ていますージョコビッチ』ゼンデイヤはこの言葉を開始間もない「チャレンジャーズ」のインタビューで私に語った。

時は2023年7月。27歳の女優は後にこの影響で8月30日のヴェニス国際映画祭に出席できなくなるという事態を引き起こしたSAG-AFTRAのストライキに備えながらテレビでウィンブルドンを見ていた。もちろん、俳優たちのストライキが行われた一週間後、アマゾンMGMスタジオは「チャレンジャーズ」の公開を4月26日に延期し、映画祭にも出席しないとした。

ゼンデイヤは主演として、プロの夢をあきらめざるを得なくなる膝のケガをするまで、セレーナ・ウィリアムズが歩んだようなスターダムを駆け上がった18歳のテニスの天才少女、タシ・ダンカンを演じる。13年以上もの間、気が付くとタシはテニス、そしてアート・ドナルソン(マイク・ファイスト)とパトリック・ズワイグ(ジョシュ・オコナ―)という二人のテニス選手たちと性的・心理的な関係に陥っていた。

『タシのようなキャラクターはこれまで見たことがありませんでした。そしてもしタシみたいなキャラクターを見ていたとしても、まさか自分のような人が演じるとは思わなかったでしょう。』ゼンデイヤは言う。

Varaietyの表紙(映画の公開に合わせて延期された)にもあるように、白人選手に囲まれてプレーする黒人アスリート役として試合で叫ぶシーンを極めたこと、そしてプロデューサーを務めた経験がメガホンを握るという夢の実現をいかに近づけたか、ゼンデイヤが語る。

ルカ・グァルダニーノ監督と脚本のジャスティン・クリッツケスとのコラボレーションはいかがでしたか?

ジャスティンとはzoomで顔を合わせて、彼のビジョンについて話しました。私は「テニスに夢中になっているの?どうして?」という感じでした。でもすぐに意気投合しました。はじめに話したのは、「どの監督ならこれを実現できるか?」ということでした。私ははじめからプロデューサーとして活動し、映画でありテニスでもあるけれど、実際はもっと深くてただのテニス映画ではないというこの作品を、誰なら作り上げられるのか模索していました。「あぁ、この映画を理解するにはテニスのことも分からなければいけないのか。」とは思ってほしくありません。テニスはもっと大きなものを表すメタファーにしかすぎません。力、共依存のメタファーです。テニスはこれらをキャラクターたちの世界から表出させるための手段として使われています。テニスは彼らがコミュニケーションをとるための唯一の手段なんです。台本はありますが、同時にほかのことも起こっています。

そして候補に挙がったのがルカ・グァルダニーノでした。私たちが初めて一緒にzoomミーティングをしたとき、彼はとてもニュアンスと思慮に富んだ考え方で台本を理解していました。彼は私がよく知らなかったキャラクターのことについても理解していました。台本に描かれているシーンもあれば、語られないシーンもあります。彼はすでにそれを浮き彫りにし始めていて、どうすればこの映画を作り上げられるのかも分かっていました。紛れもない事実として私と彼は同じビジョンを持っていて、それはとてもとても重要なことでした。彼はジャスティンと共に脚本に取り掛かり、形ができ始めました。

この映画はスポーツ映画ではないですし、ただのコメディ、ドラマでもありません。これら全ての異なる感情が渦巻いているのです。第一稿を読めば、ルカの感受性をより感じることができると思います。彼は深堀りして、台本に書かれていないようなことを描き出して目に見える形にし、ユーモアと痛みそして悲しみと共にどのようにして演技するのか見つけ出すのが好きでした。これの実現はとても美しく面白く、そしてテクノ音楽も効果を増幅させま

テニスを実際にプレーするにあたって、何か準備はしましたか?トレーニングキャンプをしたんでしょうか?

正直、テニスのことは何も知りませんでした。なので、ただ飛び込みました。ネット上で見れる試合やハイライト、インタビューなどありとあらゆる映像を見て、これは習慣になりました。仕事をしていないときはいつも何かを見ていました。インスタグラムのおすすめは、テニスのものでいっぱいになりました。どうやってテニスをするかを学んでいて、こんな小さい子供たちをインスタグラムで見ています、10歳くらいの小さい子供なのにプロみたいなんです。『わぁ、すごい』ていう感じでした。テニスがとても強い人はすごく幼いころから始めていて、テニスはそういった類の競技の一つです。自分が全く理解できない世界に踏み込んでいるという事実には、すこし恐怖を覚えました。

ですが、私にはダンスの経験があったので、真似するような感覚でアプローチしてみました。本当の意味で完璧なテニス選手になることはできないし、ボールは意図した方向に飛ばせないと思いますが、その心配はいりませんでした。ボールは後で付け足したんです。動きを調整したり、できるだけ合わせたりすることに注力しました。二人のとても才能のあるテニス選手が来てくれました。自分の体格と似ている人を見つけて、彼女の真似をしていました。彼女の足運びを見ました。私たちふたりが並んでいる動画を無限に撮って、足や手を彼女の動きとできるだけ近づけようと試行錯誤しました。これに集中していました。そしてまた、サーブの前の小さな動作やボールの握り方などの癖を学ぶことにも着目していました。選手たちはボールを手で握るかわりに、ラケットの上に乗せていたんです。

サマーキャンプみたいでした。朝起きて、マイクとジョシュと私が隣同士のコートにいて、何時間も練習して、トレーニングに出かけて、休憩して、戻ってきた後の午後はリハーサルをしました。新しいスキルを学ぶのにとても良い時間でした。トレーニングは楽しいときもありましたし、リハーサルをする機会があるというのはとても特別なことでした。というのも、素材を深めたり、質問したり、ためしに演技してみたり、キャラクターや共演者をより深く知ったりする時間が設けられる機会はあまりないからです。すごく貴重な時間でした。小さなビデオカメラを持って行って、すべてを録画しました。

ダンスの経験についてお話していたところが面白かったです。テニスをダンスとして捉えるというのはこの映画において、理にかなっていますね。タシはテニスのことを人間関係(Relationship)だと言っています。これはご自身の仕事にも通じますか?

私がタシに最も共感する点は、彼女がやっていることに対する純粋な愛と情熱です。彼女はテニスを愛しています。テニスに夢中です。ケガの瞬間まで、テニスが彼女のアイデンティティでした。テニスによって彼女は力を得ていました。テニスは自分自身を知り、捉える方法でもありました。テニスが未来すべてでした。彼女は自分が送るはずだった生活を失ったことの悲しみや人生における愛(テニス)を失ったことの悲しみにふけることもできませんでした。そしてせめて自分の愛したものの近くにいるために、彼女は多くの決断、おそらくあまり良くない決断を迫られたのです。

こうなるのはあまり健康的ではないと思いますが、彼女に同情もできます。だって、そんなことが起こるなんて想像できませんから…俳優でいられて幸運です。永遠にやり続けることができます。年をとっても引退する必要はありません。同じようにいられます。たくさんの俳優の皆さんがそうしてきていますし、とても美しいことだと思います。彼らが年を重ねていくのを見ることができます。本当にかっこいいし、わたしも同じ環境にいられて幸運です。ですが、アスリートにはタイムリミットがあります。そしてケガをすることもあり、人生すべての道を変えられてしまう可能性もあります。何かに苦しんだり、もう一生演技できないなんて想像もできません。そうなったら悲惨すぎます。もし俳優という選択肢がなかったら、自分の人生がどうなるのかわからなかったと思います。この点で彼女に同情しましたし、再発見、リスタートという考えに共感しました。ここで問題なのが、彼女にはこれらに対処する機会がなかったということなのです。

スポーツとハリウッドは全く違う世界です。しかしタシは子供ながらスターでしたね。

そうですね。彼女はまごうことなき天才です。

あなたはキッズスターから大人のセレブへうまく移行することができました。タシがケガをする前の歩みの中で、あなた自身が幼いころからこの業界にいたという経験と共鳴できるところはどのくらいありましたか?

多くのことを証明しなければいけなかったり、自分の前にたくさんのものがあったり、楽しませなければいけない人々がたくさんいると感じるような重圧という点においては、自分との繋がりを感じます。自分自身のこともまだわかっていないのに、です。大事なのは、彼女はこの重圧にうまく対処していたということです。タシは最も偉大な女子テニス選手になるはずでした。彼女の成長過程やメンタルは不屈のもので、それが余計に壊滅的な結末を導きました。テニスの近くにいる唯一の方法は、かつての自分の代わりになれるくらい伸びしろのある人を見つけることでした。それでも彼女にとっては物足りませんでした。あの日の最後、彼女はファイヤ&アイスになるんですよ?一人で足りないなら、二人が必要だったんです。そして彼ら、二人組というのはきっと彼女自身でもあったんだと思います。

タシは作品内の二つのターニングポイントで「カモン!」と叫びます。映画を通して、我々はテニスが複雑でセクシーで悲しいものであるという彼女のフィロソフィーを理解しました。この叫びにどのような想いを込めましたか?

この叫びはとても興味深いものでした。母がこの映画を観た時、私が思っていたこととは全く違ったことを考えていました。劇場を後にするとき、誰もが登場人物に対する自分なりの視点を持ちます。たとえば「うん、アート派だな」と思ったり「まって、タシが正しかった。二人ともクソ」という感じで。怒りでも安堵でも楽しみでもなんでも、なんでもいいので彼女から感じてほしいと思っています。なので「カモン!」というセリフの裏にある意図を言うことにはためらいがあります。観客の皆さんがそれぞれの方法で観賞し自分自身のものにできる、これこそが映画製作の美しいところです。

私はペパーダイン大学に何回か行って、男子と女子のチーム戦を見ました。そして彼らが立てる音に心奪われました。喉から出るような叫び声です。それが情熱なのか、怒りなのか私にはわかりませんが、本能的な音を立てていました。そしてそれらはとても大音量でした。ぶちまけていました。カタルシスのようなものが起こっていたはずです。癒しの効果があるようにも、美しくさえも感じました。

一般的に、テニスはとても孤独なスポーツのように思えます。自分と対戦相手だけなんです。私たちがビリー・ジーン・キング・センターでボールを打っているときは、後ろにいる俳優たちが応援してくれましたが、全員お金をもらってそこにいる俳優でした。すごく管理された環境ではありましたが、怖かったし固まってしまいました。焦っていましたし、まるでU.Sオープンでプレーするかのように緊張していました。そして「カット」というところでもう一度やる、するともうプレッシャーはないんです!そのような環境に実際に身を置いたり、自分自身でやるなんて想像できませんでした。あの叫びの意図ですが、私が言えるのは、全てを込めたということです。ルカも「全て、全てを込めて。大声で、アグレッシブに。すべて出そう。」といっていました。そして私も「OK、さぁやろう。」という感じでした。

お母さんはどのような解釈をしていたんですか?

まず私の視点では、タシは明確に自分が見ていたものに心を動かされ、目頭が熱くなっていました。見たものすべてが、彼女の心に十代の頃に失った火を付けたのです。その感情こそ、彼女が本当に本当に恋しかったものだと思います。そして私の母ですが、「彼女は怒っている、激怒しているの。」と。面白いですよね。おそらく怒りもあったと思います。タシがどう感じたのか私にはわかりません。いまだにどうして登場人物たちがあのような決断をしたのか不思議です。

タシがどうしてこのような三角関係に飛び込むことを決めたのかとても不思議です。アートが言ったように、彼女にはふさわしくありません。タシが二人に出会った夜、彼女は世界の頂点に君臨していました。どうして二人に興味を持つことになったんでしょうか?

これは私がタシのことで好きなところです。あの日、彼女自身を頑固にさせるようなことが出来事(決勝戦)がありましたが、一日の終わり、パーティーの時、彼女は本当の姿でした。彼女がこんな風になる決定的な瞬間はありませんでした。彼女が二人の青年に自分の力を振りかざすためだけに現れたことは、暗示だったのです。彼女はいつだって自分の力を自覚していましたし、他人に対してどのようにその力を行使すればいいかもわかっていました。健康的なことではありませんが、ずっと分かっていました。自分が楽しむためだけに力を使っていました。年を取るにつれ、力というのは生き残ったり人生を切り抜ける手段になってきました。昔は技術を誇示したり、どれだけ人を蹴落とせるか試す力があったからそんな風に振舞っていました。人を試すんです。何なら許さるのか、何をしてもらえるのか。どれだけ自分が人を動かせるのか。厄介な人でしたが、それは彼女がそうしていられた時の話です。昔はただ楽しみのためだけでした。しかしその後の人生では違います。

アートとパトリックをモーテルでキスさせたシーンを見ると、彼女がどれだけ人を操作するのを楽しんでいたかわかります。実際どんな感じでしたか?

あの日はビヨンセが「Break My Soul」をリリースした日だったのですごく覚えています。「やったぁ、ビヨンセのシングルが公開された🎶」という感じですごくいい日でした。正直、あれに夢中でした。

私たちはすべてのシーンのセリフを事前にリハーサルしていました。全員で登場人物について討論しましたし、場を共有しました。毎日、お互い体育のクラスを受けていました。トレーニングの間、試合もしましたが、楽しいひと時でした。なので、あのシーンを撮った時にはもうみんな落ち着いてとても安心できていました。そしてあの二人と共演できたこともとても幸運でした。彼らはなにか新しいものやダイナミックさを場面にもたらしてくれました。「やばい、集中しなくちゃ」となってしまったくらい。とても才能豊かでしたし、素晴らしい人でもありました。自分の最高の演技ができると確信できるだけの共演者との安心感と支えがあったんです。すごく支えられました。オフィスでの別の日のことでした。

「チャレンジャーズ」が人種をどう扱っているかについてもお話したいです。少ししかセリフには登場しませんでしたが、テニスの世界における黒人女性としてのタシの存在は映画を通して感じることができました。ルカとジャスティンと共に、どのようにしてこの物語を作り上げましたか?

タシが自分のような人々を見たことがあるのかはわかりません。2000年代であっても。彼女に似たような人がいたのか分かりませんが、きっと黒人女性を代表してるとは思っていなかったんじゃないでしょうか。ひとつ明らかなのは、彼女は自分が生まれ育ったような環境ではないような特権的な場所にいたりアクセスを持っていて、享楽にふけっているということです。おなじ「成功」にも異なる必要性がありました。彼女はパトリックに「自分の親に役員にならせてもらえないか頼むか、お金でもねだれば?」といいます。これは彼女が持っていないものです。彼女のすべてのバックグラウンドは自分自身の肩の上にありました。機会はとても少なかった。扉はずっと小さかった。黒人の女の子がその場にいるということは、彼女がそういった出来事をどうにかくぐり抜けなければならなかったり、また日々対処しているという明確な証拠です。タシにとってのテニスには、二人よりも多くの意味がありました。「小さい頃からテニスのレッスンを受けられるくらい裕福」だからテニスをするんだというような生易しいものではありません。これが彼女にとってのテニスなんです。彼女自身、そして家族、未来を養う手段なんです。たくさんのものを背負っていました。彼女はそういったことに直面していました。彼らには一生理解できないことです。

ただこういったことは常に書かれていました。自分自身で掴む必要はありませんでした。ただシーンの実現のために自分のできることをもたらしてもらっていました。これがテニスの現実です。このような世界が実在するのか、このような選手がいるのかどうか私には分かりません。ですが、「チャレンジャーズ」の世界ではセレーナがタシの憧れだったに違いないと思います。

タシがなれたであろうテニスのスター選手になるために、ともに彼女に助けを求めたアートとパトリックとのダイナミックな一連の出来事についてどう感じていますか?

二人はタシがなれたであろう姿には絶対になれないという事実が彼女の焦りの種でした。彼女はなにか大きなものの代わりをしていたと思います、そしてそれがどんなものなのか彼女が知ることはありません。ほかの選択肢はありませんでした。自分と同じような人が少ない環境にいたことで、重圧は三倍にも四倍にも膨れ上がりました。なぜなら彼女は自分自身だけを象徴しているのではなくて、自分の所属するコミュニティや似たような人、そして自分に見られていると思っている人のことも象徴しているからです。

タシが自分の持っているものすべてを失った時、ものすごく我慢強くいることができ自分自身を再生産する手段を持っていたというのは、見事でした。あまり良くない方法ではありましたが。それが、彼女が自分のケガに心の底から対処することができない理由です。なぜなら彼女は「わかった、次に行こう。どうすれば治る?どうすればこのままいける?」という感じだからです。彼女はただ次にすることを見つけ、それがアートでした。しかしアートとパトリックのテニスには生死がかかっていませんでした。これが彼女が明らかにしようと奮闘していたことです。タシはあえて彼らにとって一か八かの決断を下しました。

アートを演じたマイク・ファイストの相手役として、明確な異人種間の関係の中にいる黒人女性を演じるというのはどのように感じましたか?またそう思ったのはそういった経験があるからですか?

これはタシの話です。なので必ずしも私個人にリンクしているわけではないと思います。ですが、彼女のような女性でいるということはアートの妻という肩書に閉じ込められ、そういった見方しかされないという点で本当に大変なことだろうというのははっきりわかります。彼女はアートのコーチで、そのことを折々で人々に思い出させていました。「誤解しないで、いい?」というビヨンセの歌詞があります。これが力を持つ多くの女性、特に力を持つ黒人女性のリアルを表しています。自分のパートナーの影に隠されてしまうせいで、自分の力が過小評価されたり、すべてを見てもらえないと感じるのです。こういったことが彼女が下した決断の理由になっています。自分自身にこういったこととの共通点は全くないと思っていますが、そんな風に感じるに違いない経験してきたことは確かです。タシがどのようにして今も自分の力をアピールするか、そして自分たらしめるか、自分をちっぽけに感じたりただの他人のスタッフだと思わないようにするか。

初めにこのキャラクターを読んでいた時、彼女が完全に冷淡で無常で意地悪という風には思えなかったということを確認したいと思っていました。それが彼女だとは思わなかったからです。彼女はただ、健康的に表現する方法を知らなかっただけなんです。彼女の価値観や感受性を掴むことはとても大切でした。私は、彼女が必ずしも壊れてしまうのではなく、ケガをしたという事実に対して何かを感じ、すぐに元の状態に戻すための時間があればよかったと思います。彼女が人間であるということは覚えていなければいけません。機械ではありません。計算されたモンスターでもありません。

彼女はいつもみんなのために答えています。アートとの関係で難しいのは、彼が答えをもらうためにいつも彼女のことを見ているということです。対等な関係ではないように思えます。彼女がすべてを決めているようにも思えます。彼女がすべてを動かしています。誰も確認はしません。だれも「調子は大丈夫?休憩する?気分はいい?」などとは接してくれません。誰もそうしてくれなかったし、彼女自身も自分のためにそのような場は設けなかったと思います。いつもたくさんのことをやりすぎていると思っています。

タシと共に、我々はあなたが自立した大人のキャラクターを演じるのを初めて見ています。ディズニーチャンネルから卒業した後も、「ユーフォリア」や「スパイダーマン」におけるような若いキャラクターを演じ続けてきましたね。こういったことは映画を製作している間も考えていましたか?

ただ自分を成長させたり後押ししたりするようなことをやるのが好きなんです。「私にできるの?」というような恐怖もあります。いつか監督になりたいと思っています。監督たちに「どうやって自分が準備万端だと分かったんですか?」と聞くと、彼らは「一生分からないよ。ただやるだけ。深みに飛び込んでみて自分があこがれるような仕事をする人とやれば、彼らの仕事を信頼してすごく素敵なものを作れると思う。」と。

自分が16歳の時から16歳を演じてきました。なのでもう子供ではないキャラクターを演じられて良かったです。また、自分がまだ人生で経験していないことを演じるのも面白かったです。まだ結婚していないですし、子供もいません。このような道しるべは必ずしも自分自身の人生の出来事に直接リンクするわけではありません。言ってしまえば、このようなキャラクターを演じるにはいい時期だったと思います。

タシを演じたことによって、メガホンを握る夢に近づけましたか?自分がプロジェクトを引き受けるのが待ち遠しいですか?

いつかやりたいです。様々な監督から学ぶことが好きで、そういうわけでプロデュースをするのも好きです。映画製作の過程や人々が働いているのを見るのも大好きです。「デューン」を撮影しているとき、質問をしました。自分が撮影していないときにも現場にいました。なのでいつか、いいときに。

「チャレンジャーズ」のプロデュースの過程から何を学びましたか?

創造力がはじけるような場でした。また、プロデュースは物語や映画製作に深くかかわる手段でもありました。色々学べる素晴らしい場でしたし、自分の意見や思っていることが力を持っている場でした。プロデューサーの肩書を持つ以上、口先だけではいけません。これまでにこのような立場に立った経験はありませんでしたが、人々が自分の意見を聞かなければいけないということを知ることができて良かったです。みんなが自分の言うことに耳を傾けたり、会議に持ち寄ったことを聞かなければいけなかったり。その力を私はすごく小さいときに知りました。

ですが、わたしはプロデュースという仕事の問題解決的な側面もとても好きです。「チャレンジャーズ」の撮影をしていて、雨が降っていた日があったのですが、コート上が安全ではなかったり、それまでに撮っていたシーンとつじつまが合わなかったので撮影ができませんでした。どのようにすれば実現できるのか試行錯誤することが、映画製作の大部分です。






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