『無い』とか『マイナス』とかが好き
例えば、持ち物なんて極力持ちたく無い
子どもたちが小さい幼児だった頃ですら、ほとんどなんにも持たずに出かけてた。無いなら無いで別に何とでもなるもんだ。
増えていく考え方は好きになれない
なんでも増やせばいいと思ってる人を見れば分かる。辛そうだもの。増やす人ってだいたい結果ばっかり気にしてる。結果を出さなきゃ認められないとか言うのは。(´Д`)ハァ…疲れちゃうわ。誰かに認められるとか言い出す前に、自分で自分を認められないとどうにもなんない。
なんでもかんでも足し算とか掛け算とかしたがる世の中だけど、私は引き算と割り算の方が洗練されていくだろうし、居心地いいだろうし、不安に苛まれなくて済む分、都合が良いと思ってる。そっちの方が好き。難しい計算式とかも好きになれない。
増えていくってさ、ある種の麻薬みたいなもんで気持ちが高揚する。気持ちが高揚するってことは、その後、揺り戻しがあって元に戻ってくるわけだけど、元に戻ったとは思えなくなっちゃって、落ちていったみたいな感覚になってしまう。で、結局は増やすっていう高揚感を求めて依存していくみたいな。
何でもかんでも減らせばいいって考えが好きなわけでも無い。なんだってやり過ぎると似てくるよね。
バランスを取るために引き算や割り算なんかを使って調節していくイメージが好き。それぞれの人の器でちょうどいいサイズとか量とかを探せばそれでいい。上手く行かないことがあるって事は、バランスが悪いってことなんだから、バランスを調整する事をためらう理由は、私にはにゃい。
だいたいの事が多すぎちゃう世の中で、気がつくと勝手に増えちゃってた。みたいな事が日々起こってくる。だから、意識して引き算。でも減らし過ぎもやっぱり高揚感に自分を持っていかれてしまうから、そこは注意している。
そうやって、揺さぶりをかけたり、間引いたりしていくと、ちょうど良いところが分かる。
ちょうど良いところを作るための方法を知らないと、不安になるんだろうと思う。
だから知ろうとする。そしたら、そのためには不安定で揺さぶりをかけないと、立っていられるかどうかが分からないから、まずは揺れている場所へ行けと言われる。
揺れている体験をしたことが無い人は、怖がってそこへは行かない。
そして、揺れない場所で闇雲にちょうど良いを探しながら彷徨って、疲れ果てて、座り込む。座り込んだ場所を、ちょうどいい場所だと思い込むために、自分の周りに壁を作り始める。もう動きたくないし、ここがちょうどいい事にする。と決め込んでずっと無理をする。こんな感じの人にたくさん出会ってきた。みんなとても苦しそうだったし、辛そうだった。
経験をさせてもらえなかったり、失敗を許されなかったり、挑戦に結果を求められたり、誰かのようになる事を強制されたりすることで、揺さぶられる場所へ行くのが怖くなってしまう子どもたち。
怖かった思い出がある大人ほど、子どもたちに、怖いことを避ける方法を教える匠になってしまう。つまり連鎖しながら強化されていく。今、失敗を責める世の中になってしまったのは、連鎖しながらスパイラルが大きくなってしまったということだろうと感じている。
失敗をさせない、怖い場所へ行かせず、経験する機会を取り上げることを、『大事に育てている』と自負している大人のなんとも多いこと。
そりゃあ数も減りますわよ。だってそれは、大事にしてるんじゃなくて、『信用してない』なんだから。
苦労は買ってでもしろ
なんて言われるのは、サクセスストーリーに乗っかるとか、大業を成し遂げるとかそう言う大げさな話しじゃなくて、自分のバランスを確かめるための儀式みたいなもんだと思ってるとちょうどいい。
苦労って、疲れ果てて座り込んだ場所でするのど、自分で選んだ場所で揺さぶりをかけるのとでは、疲労度が全然違うから、回復力も違ってきちゃう。
私は怠け者で、怠惰な人なんだから、自分から揺さぶりをかけたいし、揺さぶられたり間引かれたりする事を先に選びたい。疲れ果てるのとか絶対にヤダもん。どこまでも怠惰な私を続けたいという変態なんだから。
捨てるのが惜しくなったら要注意
捨てるのが快感になったら要注意