ショートショート:「個人主義の時代へようこそ」
修二は、若手の小説家だった。純文学を専門とし、若くして数々の賞を総なめにした彼だったが、ある時点から公の場で政治的な発言をするようになり、為政者を批判する内容の本を書くようにもなった。それらの本に展開される為政者への批判の舌鋒は非常に鋭いもので、他の政治評論家にはないユニークな視点も多く含まれており、とくに野党の議員を中心に、政治家の中にも彼の本を愛読する者がいるらしかった。
修二は自身の著書の中で、過去の偉大な文学者や哲学者の言葉を引用しながら、無責任なことを言って大衆を扇動しようとする為政者や、インフルエンサー、テレビタレントなどを痛烈に批判した。彼の目から見れば、声が大きい者の欺瞞がまかり通り、不条理が放置され、しかも誰もそのことについて声を上げようとしない現代社会の有様は、仏教の用語で言うところの「末法の世」そのもののように思えた。便所掃除のようなもので、世の中も汚れがこびりついてきたら、誰かがその都度きれいに洗い流していかなければならない。彼はそのような思いから、嫌われる役回りであるということを自覚しながらも、世の中の「強者」たちに対して、批判的な態度を取り続けていたのである。
彼の政治評論本は、それなりの部数が売れていた。一部の政治家が、彼の本に書かれていたことを引用したのではないか、と思わせる発言を公の場でしたこともあった。だが、それだけに過ぎなかった。所詮は世の中の潮流を変えるような影響を、なんらもたらすことはなかったし、彼がどれだけ正論を説いて本を書き続けても、(彼の目から見て)愚かで欺瞞に満ちた為政者が、権力の座から追われることもなかった。不条理は放置され、人々の無関心も、変わらないままだった。少なくとも彼の目からは、そう見えた。
そんなことが何年も続いた後、世の中や人間の汚い側面ばかりを見すぎたためか、修二は体調を大きく崩し、病の床に臥せるようになってしまった。彼がそうしている間にも、世の中は間違えた方向に進み続けているようだった。過去の偉大な思想家たちが予見したように、大衆社会、近代国家というものは、崩壊に向かっていく運命にあるのではないだろうか?そのような思いが強くなるばかりだった。
彼は、病から回復してからは本業の小説の執筆に戻り、政治の世界には極力関心を払わないようにしていた。しかし生きている限りは、嫌でもある程度の情報は、目に入ってきてしまう。日本の政治家は相も変わらず世襲のボンクラばかりで、国の借金も天文学的な規模にまで膨張し続けていたし、悪化し続ける少子高齢化にも、まったく歯止めがきいていなかった。そして何にも増して憂うべきは、大衆の無関心であった。彼らの無関心のために数々の欺瞞が放置され、不条理がまかり通る世の中になっていたとしか、思えなかったのである。
「これはもう、日本という国が崩壊してしまったことの現れなのではないだろうか?
」
あるとき、そのように自問した彼は、はっとした。そう、もうとっくに、日本と言う国は崩壊していたのである!
そう考えると、あらゆる事象に明快な解釈が与えられるような気がした。愛国心が失われ、大衆が他者や社会に無関心になっていったのも、昔の人が考えたような国家が、すでに姿を消していたからだったのだ。他者と他者とを結び付けていた共同体は解体され、そこに残ったのは、個人の点の集合体である。彼らは自分と言う点にしか関心がないし、集合体の全体を変えようとか、良くしようという発想は、さらさら持ち合わせていなかったのだ。
今、「国のために戦おう」などと言ったところで、心を動かされる者は、誰もいないだろう。「税金は払うから、戦争のプロの自衛隊に何とかしてほしい」と考える者が大半のはずである。もし、日本が他国から侵略されるようなことがあれば、お金があったり、能力があったりする者は、我さきに日本から逃げ出すに違いない。
これは、過去のどんな思想家も、予想ができなかった展開なのではないだろうか。科学技術の進歩とインターネットの普及によって、貨幣という国家が介在するシステムに依存しながらではありながらも、組織や国家の存在を意識しなくとも個人個人で自由に生きていける時代が、知らぬ間に訪れていたようである。もう、大衆が連帯して立ち上がろうにも、戦う相手(横暴に振る舞う権力)はどこにもいなかったのだ。そんなことをすれば、むしろ貨幣や法律のような生活のインフラを維持することができなくなり、自分たちが困るだけだろう。
そう、国家とは、電力会社などと同じ、生活を円滑にするための最低限のインフラを提供する組織の一つに成り下がっていて、とっくに個人の生き方に与える影響力など、なくなっていたのである。
だから、世襲のボンクラが政治家をやっていようと、彼らがどんなにバカなことを言おうと、大勢に影響はなかったのである。今日も世の中は回り続けているし、もちろん要領良く生きられない人や悲劇的な人生を歩まざるを得ない境遇の人もいるにはいるが、大半の人は、それなりに幸せを味わいながら生活している。
個人主義の世の中においては、誰もが自分自身の人生を優先するべきなのである。その中で、周囲の人を幸せにする余力があるならば、そうすればよいし、そもそも他人や世の中に影響を与えようという考え方自体が傲慢で、間違いのもとなのである。人類は、「偉大な」指導者に導かれて、数々の大きな間違いを犯してきたのだから。
そのことに気が付いた修二は、少し晴れやかな気持ちで、次の小説の執筆に取りかかることにした。個人主義の時代においては、誰もが、自分の人生を生きるしかないようである。
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