ショートショート:「制度疲労」
※この作品は、以下の二つの作品の続編としてお読み頂けますと幸いです。
https://note.com/bold_yarrow777/n/nc1966ae407cb?sub_rt=share_pw
私は精神科医をしているのだが、今まで、様々な背景を持つ患者さんたちと出会ってきた。
私は診断の中で、知能の問題に重きを置いている。つまり、最近社会問題のようになっている発達障害や境界知能の問題をはじめとして、患者さんたちが抱える生きづらさの根源を探っていくと、知能の問題(全般的な高低が問題になる場合もあれば、各パラメーターの偏りが問題になる場合もある)に行き着くことが多いと、感じているのである。
もちろん、異常に高い知能が生きづらさを招くこともある。例えば、私が以前診察した患者さんで、人口のトップ0.1%の水準のIQを持つ方がおられたのだが(その方は東京大学の大学院を卒業されていた)、その方は小学生の頃、学校で解かされる問題の答えそのものではなく、その問題が扱う事象のもっと根源的なメカニズムに関心が向いてしまい、苦労したそうだ。例えば、理科の問題で「太陽がこの方角のとき、影はどの方向にできますか?」というものがあったとして、「光とは何か?」「なぜ地球は自転しているのか?」といったことに真剣に頭を悩ませてしまう、といった具合である。
ちなみに、その患者さんの場合は、異常な高IQだけではない問題も抱えておられた。例えばASDの傾向が強く、他者への共感性や他人の視点に立って考える能力が著しく欠如していた上、思い込みが激しく、一度自分で作り上げてしまった思考の道筋を現実に合わせて軌道修正することが、難しいようだった。彼の記憶力や論理的思考能力は、常人が理解不能なまでにずば抜けていたのだが、一度思い込むと現実を歪めてでも間違えた方向に思考を展開してしまう傾向があるようだった。
あくまで想像に過ぎないが、ガリレオが唱えた地動説に対して、頑なに異を唱え続けた教会側の知識人たちも、その患者さんのようなタイプの人たちだったのかもしれない。ひょっとすると、科学の知見が膨大にある現代の知識人と、そういった知見が不十分だった時代の知識人とでは、求められる素質が異なっているのかもしれない。もちろん現在でも陰謀論者や新興宗教の教祖など、その患者さんのようなタイプの人間が活躍(?)できる場もあるのだろうが、私はその患者さんにはそのようにはなってほしくなかったので、極力他人に影響を与えない仕事をするように提案した。
このように、高IQでも生きづらさを抱えてしまうケースもあれば、逆に本人がIQが低いことに気が付かないことで、本来歩むべき人生のコースから外れてしまって、生きづらさを抱え込んでしまうケースもある。
例えば、別の患者さんのケースでは、「境界知能」と呼ばれる水準のIQでありながら、有名大学に進学された方もおられた。その方は五年間も浪人をしておられたようで、さらに本番のマーク試験の運もあって、そのようなことになったようである。
私には予備校講師の友人がいて、彼はことあるごとに、「マーク試験の弊害」について話している。つまり、マーク試験は実施する側の大学からすれば、採点する手間を減らせるメリットがあるが、本来なら試験ではじかれるべき人をはじき切れないという、バグが起こる可能性がどうしても高くなってしまう、ということである。
入学試験のそもそもの目的は、その大学や、その大学を卒業する人たちが乗ることになる人生のルートに、相応しい学力や知力を持っているかを判別することのはずである。もちろん最近の入学試験はよく作りこまれていてラッキーパンチのようなことが起こる可能性は低いが、とはいえマーク試験では答えがそこにあるため、本来ならその問題に正解できる学力をもたないはずの受験者が、正解してしまうことも十分に起こりえるのだ。そして、そういうラッキーが連続して起こることもまた、完璧にゼロとは言えないのである。したがって、その大学が想定している学力、知力の水準に達しないにもかかわらず、入試を潜り抜けてしまうことが、どうしても起こりえるのである。
これは、本人にとっても良いことではないかもしれない。そういう、入試を運で潜り抜けてしまった生徒が、たまたま受験勉強をしていなかっただけで、その大学での生活に適応できるポテンシャルを持っていたなら良いが、そうではない場合の方が多いからである。
その大学に集まっている人たちの平均のIQよりも本人のIQが20とか低いことになってしまうと、入学後の勉強についていくのが大変だし、それでも日本の大学、とくに文系の大学は緩いから卒業できてしまうこともあるかもしれないが、就職活動や、就職後の仕事で躓くことになってしまうだろう。それなりの規模の企業の人事の人間は人を見抜く目を持っているものだし、さらに百歩譲って就職活動ですらも突破できたとしても、実際に仕事をさせたら、業務のスピードについていけなかったりすることになってしまうのである。
ちなみにその患者さんの場合は、五年浪人していたことで良い就職先にいけなかったことが、精神を病む原因になってしまったようである。だが、彼のIQがもっと高ければ五年も浪人することがなかっただろうことを考慮すると、やはり知能の問題が大きかったと言えるだろう。
そして、彼に五年間も諦めずに受験勉強を続けさせた根本原因について考えると、今の学歴社会、能力主義の社会が抱える闇が、浮かび上がってくるように思える。今の社会では、「良い人生」を歩むためのレールのようなものがあらかじめ敷かれていて、そこから少しでも外れまいと、多くの人が切磋琢磨している。だが、その競争は社会全体のパイを大きくするためのものではなく、限られたパイを奪い合うための競争になってしまっているのである。
明治時代に今の教育制度の原型ができて、入学試験のようなものがはじまったもともとの理由は、「日本という国家に貢献できる、エリートを選抜するため」だったはずである。その頃のエリートは、国家のシステムに組み込まれて、本当に社会に貢献していたことだろう。しかし、今の複雑な世の中では、東大に入学できるくらいの頭では、本当の意味で社会に貢献することは難しくなっている。その多くが東大を出ているはずの政治家や官僚たちが、今の社会の状況をまったく改善できていないことが、このことを明確に示しているだろう。
あらかじめ、「努力に意味がない」とか、「成功者にリスペクトを払うな」とか言いたいわけではないことは明確にしておきたいが、それでも今の社会で行われているほど、一般の人(本当の意味で社会に良い影響を与えられるほどの能力を備えていない人たち)を競争させることに、意味などあるのだろうか?と思ってしまうのである。
今の社会で「成功者」と呼ばれている人たちの半分くらいは、「社会に貢献するほど圧倒的な成果を出した人たち」ではなく、「単に社会の椅子取りゲームに勝ち残った人たち」なのだと思う。そんな人たちが偉そうに「あなたもこうなれる」などと言ったところで、その言葉の響きは、虚しいだけだろう。
最近は、一般大衆の中にエリートへの反感や不信が高まっている、とよく言われるが、それにはこのような背景があるように、私は思うのである。
冒頭に述べたように知能の問題が生きづらさを招くような社会は、精神科医の私から見ると、病んでいるとしか思えないのである。そしてその中核に、制度疲労を起こしている受験システムが居座っていると言えるだろう。
この問題は、一人一人が今の社会で行われている競争の不毛さに気が付いていくことでしか、解決に向かわないのだろう。以上、精神科医の私の独り言である。