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ショートショート:「第二言語の習得」
武夫にはあるときから、他人には聞こえない「声」が聞こえるようになった。その声は、次第に彼に四六時中ついてまとうようになり、しまいには不合理な命令まで下すようになっていった。例えば、他の人と話しているときに、
「こいつを信用するな」
と言ってきたり、また別のときには本屋で、
「この本を読め」
と言ってきたり、という具合である。武夫は、この声の言うことをすっかり信用していたし、なんだか自分が神通力を持つ特別な存在になったような気がして、有頂天になることもしばしばだった。しかし、やがて彼は夜に眠れなくなり、そのハイテンションな状態と、その反動で衰弱しきった状態とを、不安定に行き来するようになった。彼の家の本棚にはオカルト系の本が並ぶようになり、言動も細かく観察すれば、わかる人はおかしいことに気づくはずの状態だったのだが、生憎、彼には親しい人間関係がなく、そのことを指摘されることがないまま、時間が過ぎていった。
そうこうして、数年が経った頃である。武夫の精神に「声」が与える影響はますます大きくなり、ある日、「声」は彼に、
「この商店街を、できる限りの大声で叫びながら駆け抜けろ。」
と命令してきた。当然、まともな精神状態なら、こんな要求に従うわけはなかったのだが、なぜかそのときの武夫には、彼のこの行為によって、世界が救われるような予感がしたのだった。それで彼は実際に、夕方の仕事終わりの人たちであふれた商店街を、奇声を発しながら全速力で駆け抜けたのだった。誰が呼んだのか、すぐに警察がやってきて、彼は交番に連行され、その後さらに(彼にとっては不思議だったのだが)精神病院に移送され、「統合失調症」という診断を受けることになった。
武夫はその精神病院にしばらく入院した後、実家に帰されることになった。入院中は強制的に大量の鎮静剤を飲まされていたために何をしていたのか、自分でもはっきりとした記憶がなかった。実家に帰ってからは、薬を飲まなくても咎められることはなかったので、彼は本能的に、大量に処方されていた薬のうちの何種類かを、断薬するようになった。そうすることで徐々に意識が戻っていったのだが、そうすると今度は、あの「声」が再び戻ってくるようになった。
もう、武夫の意識はこの「声」が悪魔のささやきであることを理解していたから、彼はどうにか、それから逃れようとした。本を読んだり、運動をしたり、色々試してはみたものの、いずれも効果はいまいちだった。途方に暮れかけていたところ、たまたま本棚に、高校生の頃に英語の勉強のために買っていた初歩的な英語で書かれた洋書があるのを見つけた。彼は直観的に、
「『声』は日本語で話しかけてくる。英語で思考するようになって、日本語を脳内からシャットアウトしてしまえば、『声』も聞こえなくなるのではないだろうか?」
と考え、その洋書を手に取り、読み始めた。読み始めて10分くらい経つまでは英文がすっと頭に入ってこなかったのだが、諦めずに食らいついていくと、少しずつ内容が理解できるようになり、また、ザワザワした心が無心に近くなって、落ち着いていくことを感じた。彼はその後、洋書を読んで、疲れたら散歩をしたり横になったりして気分転換をし、回復したらまた洋書を読み始める、という生活を送るようになった。もちろん、無職で実家暮らしの生活には色々な不安もあったが、不思議なもので英文読解に没頭している間は、そういった不安に支配されることもなかった。
彼はそのうち、YouTubeに上げられている教材を使って、英語のリスニングの勉強もするようになった。洋楽を聞いて、家にあったボロのギターを片手に、コピーしてみたりもした。そうこうして一年もした頃には、すでに英語の本を10冊以上読破しており、英会話の練習はしていなかったので英語を話せる気はしなかったが、無意識に英語で思考している瞬間も増え、「声」もほとんど聞こえなくなっていた。そして周囲からの勧めもあってTOEICを受験してみると、いきなり915点というスコアを叩き出したのだった。
それから武夫は、英語を生かせる仕事をしたいと思うようになり、翻訳や英語講師の求人を探すようになった。もともと彼の大学の専攻は英語とは無縁のもので、それまで英語を使う仕事の経験もなかったために、職探しには苦労したが、何年か経つと少しずつ、フリーランスで仕事を得られるようになっていった。
そうこうして、彼が精神病院から退院してから十年が経った頃である。高校生に受験英語の個別指導をしていたときに、大学受験の英文で、第二言語の習得について書かれているものを目にする機会があった。その英文には、以下のようなことが書かれていた。
「第一言語の習得は、様々な概念の習得や、感情と結びつきながらなされる。それに対して第二言語の習得は、すでに概念が習得され、それらの概念や感情が第一言語と結びついた状態でなされる、という点において大きく異なる。このような事情から第二言語は感情との結びつきが薄いため、トラウマ患者の治療に、第二言語の学習が用いられることがある。感情との結びつきが弱い第二言語を学習し、その第二言語で思考することによって、過去の嫌な記憶から意識を遠ざけることができるからである。」
これを読んだ武夫は、生徒の前でありながら、思わず泣きだしそうになった。自分が無意識的にではあるが、正しい治療を行って病から回復できたことを、しみじみと実感したからである。