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練習をしすぎると
写真は全く関係なく夜勤明けの綺麗な川
長い間一つのことをやっていられません。この文章を書いているのも、やらなきゃいけない(とされている)ことに関して集中力が保てなくなって一時的に回避しただけです。こっちにも飽きたら向こうに戻るんで安心してください、1ヶ月後の自分。1ヶ月半後に修羅場を迎えなければいけないというのに、今の自分のなんとザコなことか。ザコと罵られて刺さる性癖は自分にはないんですが、さすがに「ザコ言い者」が直近の未来の自分だとこたえます。
たくさん「練習」をするとどうなるでしょうね。音楽とか演劇みたいな発表の練習、運動能力とかのいわゆる「基礎的な」トレーニングの練習、機会とかないけど「いつかのために」「練習しておこうよ!」「いい練習になったでしょ?」みたいな後付けの練習、世の中にはさまざまなそれがあると思うんですが。私は長い間ことを続けるのが下手なので、たくさん練習をするのが下手です。というかそもそも練習というものがあまり好きではなく、ゼロでないにしてもあんまり量を積みません。積めない、というのもあるけど、むしろ意図的に「積まないようにしている」ところがあります。
中世由来の伝統的な哲学でいうと、何かが「できない」ことは「善の欠如」。そんな欠如を抱えた私が、いったん練習についてあれこれ考え、最後に愚痴を吐き捨てる、という文章です
たくさん練習をすると、基本的には、何かの能力が上がったり、クオリティが高くなったり、うまくいかない可能性が低くなったりすると思われます。異論ありません。なにかすごいものをみたとき、「よく練習したんだねえ。」というのは褒め言葉です。そもそも、できないことができるようになるには、最低限の知識を蓄えた上で練習するしかないですよね。やってやって、たくさん失敗したり少し成功したりしながら、クオリティの上昇を目論むわけです。
私は基本、ほとんど一人寂しく生活していますから(言ったもん勝ち)、たまに会う人との会話とかやり取りをとても楽しみにしています。そのせいでむしろそれが楽しみになるし、時間もお金も節約できてこい時間を過ごせるのでこちらのが得です(言ったもん勝ち)。なんて話はどうでもよくて、人に何かを話すにあたり、頭の中で練習をしてみたりします。こんな面白いことがあった、これに腹が立っている、そういう材料を、どうしたらよく伝わるのか、どう話したら面白く伝わるのか、話す順番、言葉選び、表情?わかんないけど、頭の中で架空の自分に話しかけているような気分です。風呂に入っている時、髪を乾かしている時、歯磨きしている時、もしかしたらなんかを声に出しているかもしれません。自分にはわかんないです。歯磨きしながらぶつぶつ言ってるもんだから、いろいろ服とかソファとかに飛び散っているかもしれません。うちのソファは疲れた人に優しいので、一度腰掛けるとしばらく離してくれず、くちのなかアワアワになります。
でも、練習しすぎで逆にうまくいかなくなることってないですか??と思ってこの文章を書こうと思ったところではあります。書こうと思ったというか、いっつも考えていてたまたま勉強に飽きて文章を書き始めています。
音楽とかそういうトークとか、「一回性」の強いものに関しては、練習すればするほど、自分の精度は上がるんですが、範囲が狭くなる気がするんです。決まった球の打率は上がるが、その球にしか反応できなくなる、みたいな。一塁と三塁がどっちでどっちみたいな人が一丁前に野球に例えてすみません。自分が全く無関係なのに阪神が優勝すると関西が浮き足立つので少し面白かった2023年。
練習の逆ってなんでしょうか。practiceの対義語はtheory とかneglectだそうですが、練習って感じしないですね。表現する何かにとって、対義語の一つは「本番」です。「練習は本番通り、本番は練習通り」、と言われて育ってきてるんですが、今になって自分の志向はそうじゃないなと思うようになっています。練習は本番通りでいいかもしんないんですが、本番は本番。練習Day1と練習Day2も本番ありきのものでいいんですが、現在地は常に違うし、そこからゴールの見え方も毎回違う。とりあえず1日◯◯歩すすもう、と歩数を決めすぎると、いつの間にか急勾配になって足をぶっ壊すかもしれない。いつのまにかゴールを通り過ぎて戻らなきゃいけないかもしれない。あと、本番を練習通りにしすぎると、なんかあっという間な感じがしませんか。だって、練習通りなんですから。本番の空気、緊張、感動、全身でずっと味わってたくないですか。それが味わえるのはやっぱり本番じゃないですか。
練習と本番が限りなく近くなる、それがプロの在り方なのでは?と僕も思います。僕は何に関してもまだプロになったことがないので、この点に関して何か思えるのは10年か20年後だと思います。人生一度きりならば、何か一つに関してはプロになりたいですよねえ。できれば自称だけじゃなく、大勢の他人からも認められたいですよねえ。あわよくばそれで金もらいたいですよね。誇りを持っているならば金は二の次、っていう職人肌もわかるんですが、誇りを持ってて金も持ってるほうが僕にはロマンがあるんで、そっちになりたいです。
ではなく、たっくさん練習すると、一つの的しか見えてこなくて、飽きちゃうんですよね。いろんなことが起こる本番ってやつが、練習みたいに「こなす」だけの場になっちゃう。「本番が一瞬だった!!」というのには、「たっくさん練習したから」という前提が隠れています。青春の輝き、美談みたいな感じで、それはそれでいいんですが、めちゃくちゃ充実感もトラブルも含むような、膨大な情報量を含むような本番が「一瞬だった!!」と言われるのはなんかかわいそうだと思います。そんなこといってやるなよ、と思います。本番君だってたくさん荷物持って頑張ってくれてるんですよ。たくさん用意したのに「なんかあんたの仕事、一瞬だったね、ペッ!!」なんていってやらないでくださいよ。本番を、練習とは全く違う本番を楽しみましょうよ。
じゃあどうせえというのかと。練習をしなかったらいいんかと。違うと思います。練習をしなければしないだけいいという特殊体質の人はいいんですが(僕は若干そのキライがありますが)、基本はちょっと練習して、何が起こるのかくらいは把握したほうがいいですよねえ。初めて入る飲食店はそれはそれでいい体験なんですけど、「またきたいな!」と思った先の「このメニューうまいんですよ!!」という2回目3回目の楽しみ方がめちゃくちゃいいですよね。しかし10回目だと流石に飽きます。ルーティンワークみたいになっちゃうと損。自分の中で鮮度を失わないうちに、他の楽しいこともしたほうが、全体として楽しそうですね。
で、ここからはなんとびっくり、有料文章にしてみようかなとおもいます。私の文章を読もうと思ったらお金を払いなさい!ペットボトルの清涼飲料水1本(チェリオの自販機をイメージ)でも持ってきて労ったらどうなの、ってことです。どうせ財布から100円玉が急に出て行って行方不明になってもみなさんあんまり気にしないでしょ。それでカバンの中から急に出てきたら「ラッキー!!」とか思ってんでしょう。初めからてめえの金だろ!!じゃあなくなった100円玉はなくなってなかったとでも言いたいの!!じゃあそれ、困ってる子供(ぼく)のために使えばいいじゃん!!
以下、急に話題が変わるように見えますが、実は変わってなくて似たようなところに着地するので安心してください。具体度を挙げて話を面白くしようとしているだけです。
おのれ吹奏楽部。おまえ最近つまんないぞ!!という話。誰か特定の人とかグループに言ってるんじゃなくて、自分も含めた(あんまり含めたくはないですが)関係者全員、文化全体にクレームです。いな、コンプレインです。コンプレインってカタカナで書くと頭悪そうだな。
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