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超ど田舎ポンコツ娘が“ある人“との出会いをきっかけに自分らしい働き方を見つけた話
このnoteでは、医療職から在宅ワークに切り替えて、自分らしく楽しみながら働くための大事なポイントをお伝えしています。
このnoteを読むことで、
✅医療職以外の選択肢が具体的にイメージできる
✅新しい働き方へ一歩踏み出す勇気が得られる
✅リアルな体験談をもとに新しい働き方を選択した後の心境の変化を知れる
ようになります。
ぜひ、覗いていってくださいね!
「40歳くらいで死ねたらそれでいいかな」
当時、23歳の鬱病だった私が口癖のように呟いていた言葉。
医療職という人と関わる仕事なのに、美容院にも行かずに髪はボサボサ、ニキビと乾燥で肌もボロボロ。
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終わらない日々の書類業務。
休日には学会発表のための資料作成。
それだけでも精神が摩耗していく中、上司からの容赦ない圧力に追い打ちをかけられ完全に疲れ切っていました。
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「なんで私って効率悪いんだろ…。」
「こんな生活からいますぐ逃げたい」
だけど、そんな最悪な状況だった私でも、副業を始めて半年で在宅ワークに移行し、1年で医療職以上の収入を得ることができました。
今では、嫌いな上司に縛られることなく、コーヒーを片手にお気に入りのカフェでのんびり仕事をしています。(基本的におうち大好き人間なので、家に引きこもって仕事をしていることが多いです笑)
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自分のペースで仕事を進められるので、窮屈な人間関係や上司の顔色を気にする必要もありません。
初めまして、みきです。
私は、現在26歳で九州で生まれ育ち、現在は大阪に移り住み『在宅ワーク』を中心として活動しています。
一見、26歳で独立して順風満帆そうに見えますが、私は地獄のような毎日を送っていました。
医療職時代は、毎朝吐き気で泣きそうになりながら出勤し、夜は不眠に悩まされる日々…。
「今日こそインシデントを起こすのではないか」
という不安が常につきまとい、心も体も疲弊。
親からは「せっかく4年間も学校に通わせたのにもったいない」と言われ、仕事を辞められない状態でした。
そんな、将来の自分に希望が持てなかった私が、ある人との運命的な出会いをきっかけに、人生を大きく変えることになりました。
特に20代前半から後半にかけて
・「仕事に対する悩み」
・「キャリア」
・「結婚や出産に対する不安」
を抱えている人に向けて、
なかなか、人には言えなかった自分の思いや出来事など、恥ずかしさはありますが、赤裸々に話していこうと思います。
ぜひ私のnoteに立ち止まって見てもらえると嬉しいです。
もしあなたが、「これからもっと作業療法士(医療職)として、レベルアップしていきたい!」という方には不向きですので、ページを閉じてください。
「病院以外で働くことってできるの?」
「医療職を手放すなんてもったいない」
「50歳になってもこの仕事やり続けるの肉体的にしんどすぎん?」
などと考えるのであれば、ぜひ最後までみてください。
皆さんにも、医療の知識を活かしながら、自分らしい働き方を選べることをぜひ知ってほしいと思っています。
コンビニまで歩いて徒歩1時間、超がつくほどの田舎で育つ
「みきちゃんってかわいいし、おもしろかね〜」
母から口癖のように毎日聞かされ、小さい頃から甘やかされて育ってきました。
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4人家族の末っ子で育ったAB型の私。生まれは長崎県の市内から外れた、コンビニまで歩いて1時間ほどかかるちょーーー田舎で育ちました。
家の近くに初めて自販機ができた時は、
「おとう!新しく自販機できとるやん!ジュース買いに行くけん120円ちょーだい!」
と、自販機ができただけで大喜びな可愛らしい小学生でした笑
AB型の末っ子と聞けば、
「甘えん坊」
「わがまま」
「変わっている」
「気分屋」
「飽き性」
「楽観的」
など、色々想像するものはあるでしょう。
これ全部、当てはまっています。笑
幼少期から、母と離れるのが不安で、一緒に寝る時もお風呂に入る時も常に一緒でした笑
そんな中でも、両親は共働きで、おじいちゃんとおばあちゃんの家に預けられることが多かった私。
小学校帰り知らない人とすれ違っては、
「こんにちは〜」
「あんたどこの子ね?」
「◯◯(祖父の苗字)の孫です!」
「あ〜◯◯さんちの孫ね〜大きくなったね〜」
と、田舎ならではの会話がいつも繰り広げられているような地域で育ちました。
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まるで軍隊のような中学校、高校でたくましく育つ
うちの実家も狭い田舎だったので、小学校を卒業したらみんなで同じ中学校へ入学。高校時代も、ほとんど同じメンバーで過ごしました。
当時の私たちの中学校では、教師からの暴力は日常茶飯事。
校則は異常なまでに厳しく、制服の靴下はくるぶしより上、体操服のズボンは膝上10㎝、前髪は眉上ぱっつん。
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毎日学校中に先生たちの怒号が響き渡っていました。
特に体育祭の練習は地獄でした。
炎天下の中、朝から夕方まで延々と続く行進練習。
100人以上の生徒の屈伸の角度が1cmでもズレれば、全校生徒の前での容赦ない怒号が待っていました。
私は、昔から新しいことを覚えるのが難しく、体育祭のダンスの練習では移動の激しいフォーメーションを覚えることができず、いつも怒られていました。
当時、同じ中学校に姉がいたのですが、
「まじ、あんたが怒られるとうちが恥ずかしいけんやめてよね。」
と、私より頭も要領もいい姉にさえも家に帰って怒られていました。
その後、高校へ進学。
「やっと解放だ〜」
と中学校時代の地獄からの解放かと思ったら、今度は女性教師からのイジメが待っていました。
うちの高校には、強制的な部活動参加の校則がありました。
中学校から陸上部を続けていたので、とりあえず陸上部のマネージャーに所属することに。
当時うちの高校の陸上部は、全国大会に出場するようなレベルの高い高校で、顧問は2人とも厳しい人でした。
成績はいつもクラスの下から3番目、数学のテストはいつも赤点で頭の悪いポンコツの私は、女性の顧問の先生に目を付けられるはめに。
「あんた、この回答◯◯さんのカンニングしたでしょ?」
「あんたがいるとこのクラスの邪魔になる」
「あー死んでしまえばいい」
「さっさと、マネージャーなんか辞めればいいのよ。」
女性の顧問の先生から呼び出しをくらっては、心ない言葉を日々浴びせられました。
が、楽観的な私は
「あがんことば言うけん、いつまでも結婚できんとばいね。」
と、そこまで気に留めていませんでした笑(当時の私強いww)
高校3年生になり、進路を決める時期。
私は、大学進学を志望していました。
ですが、
「大学のセンター試験で勉強したくない」
「大学は頭がいい人が行く所」
という思いが強く、すぐに大学に行くことを諦めました。
そこで看護師だった母に、進路のことを相談してみると、
母:「お母さんみたいに、医療の資格とったら?」
私:「看護師は血見るの嫌やし、夜中の病棟は怖いけんやだ」
母:「リハビリの仕事いいんじゃない?夜勤もないし、給料も安定しとるよ」
私:「んーなんか陶芸とか、折り紙とかできて楽しそうやし。給料も安定しとるならリハビリの先生なろうかな。」
このように、母親の鶴の一声で「作業療法士」という仕事を目指すことを決意することになったのです。
“一生安定“と言われた医療職に憧れて作業療法士を目指す
そんなこんなで、九州の4年制専門学校を受けて、見事に合格しました。
当時、私は一人暮らしがしたいと思っていましたが、家族の経済的な事情から、姉と一緒に住むことに。
その頃、姉は看護師になるために大学へ通っていました。2年間だけ2人分の学費が重なってしまったため両親から、「学費は払うから生活費は自分たちでアルバイトをして工面してね」と言われました。
奨学金も毎月借りていたのですが、全て家賃代や光熱費で消えるため、アルバイトをして生活費を自分たちで稼がなければなりませんでした。
いくつものアルバイトを掛け持ちしながら、なんとか自分で生活費や教科書代などを稼ぎながらアルバイトに明け暮れる学生生活を送ってきました。
そんな時に、私は初めて「海外旅行に行ってみたい!」という思いから、友達を誘って「タイのプーケット」へ行くことに決めました。
当時は、自由に使えるお金があまりなかったので、飛行機やホテルなども全部自分たちで調べて予約しました。
タイのプーケットは、当時ホテル代と飛行機代合わせて9万円に収めることに成功し、初めての海外旅行へ出発。
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今となっては、かなりやばいなと思うのですが、当時お金をできるだけかけたくなかったので、ポケットWi-Fiなしで行きました笑
なので、電波が繋がるのはホテルだけ。
今となってはかなり女2人の旅行で危ないことをしたなと思います笑
当時、チップ制度の存在を知らず、現地に4万円しか持参していなかったので、求められても支払うことができなかったのも恥ずかしながらいい思い出。
他にも、現地のお店の人にお金を騙されそうになって、長崎弁で大げんかしたりと、日本では決して体験できないような貴重な経験を数多く経験できました。
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私は、この経験を通して、いつか 「海外に住みたい」という思いが大きくなっていきました。
一方、学業ではろくに勉強もせず、学校に行っては居眠りの毎日。
特に「作業療法士になりたい!」と、強い思いもなく、
「とりあえず、国家試験に合格できればいい…。」
こんな気持ちで、4年間の学生生活を送りました。
4年生で就活の時期がやってきました。
当時、コロナが流行り始めた時期で、病院の実習もすべて中止になり、作業療法士として臨床でのイメージも持てないまま、就職先を決めなければいけませんでした。
作業療法士の就職先は病院や、老人施設、訪問リハビリなどさまざまな場所があります。
多くの職場では、病院での3年間の臨床経験が必要なところが多いです。
そのため、卒業後は急性期や回復期などの病院で働くことが一般的でした。
そこで、当時同じ学校のクラスの中で付き合っていた彼氏がいたので、進路の相談をしました。
私:「ねー、就職先決めた?」
彼氏:「俺、大阪に就職しようと思う。」
私:(あれ、一緒に行こうって言わんのかな…?)
彼氏:「みきちゃんは、どこに就職するの?」
私:「んー決めとらんかったけど、大阪は都会やけんいいね〜。私も大阪に就職しようかな!」
もともと都会に住むのに憧れていた私は、彼氏と遠距離になるのが嫌で、大阪で就職することを即決しました!笑
そうと決まれば、片っ端から大阪の病院を調べて”一番給料がいい病院”という理由だけで、就職先を選びました。
彼氏を追って大阪の大きな病院へ就職
無事に、大阪で就職活動、国家試験もともに合格が決まり、彼氏と一緒に大阪へ進出しました。
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お互いの職場自体は、電車で30分程度の距離でそう遠くはなかったのですが、
「まずは一人暮らしをしたい」
と、意見が合致したので、それぞれで生活をすることに。
就職した病院では、寮が借りられたため、病院から2駅手前の場所に住むことになりました。
一人暮らし自体は、学生時代から慣れていたので、特に手こずることはなく、すぐに馴染むことができました。
「よし、今日から社会人だ〜」
と久々のスーツに袖を通し、新たな気持ちで病院へ出勤していきました。
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就職した病院は、リハビリスタッフが100名以上いる大きな病院で、系列の病院も多く抱えていました。
同期の人数は20名とかなり数が多く、初日から人見知りをかなり発揮笑
最初の2日間はオリエンテーションから始まり、実際に制服を着て勤務するのは、3日目からでした。
私は回復期に所属することになり、3日目から実際にリハビリの見学に入りました。
3日目の就業終了後。
「お疲れ様でした〜」と帰ろうとしていたら、
「5階の1年目は就業終わりに毎日勉強会やるよ!」
「・・・」
私:(え…?まだ就職して3日目だよ…?もうちょっと慣れてからでよくない!?)
そんな心の声が漏れそうなのをグッとこらえて、言われるがまま従うことに。
勉強会は先輩の業務が全て終わってから行われるため、遅い日には19時以降から行われることもありました。
残業のない日は、入職時のオリエンテーションがあった2日間だけでした。
毎日の残業や重い責任感に疲れて鬱になる
就職して3日目から、自宅に帰るのが毎日21時、慣れない環境への気疲れから、5階の新人メンバーだけ明らかに周りの同期よりげっそりしていました。
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入職して3ヶ月もすると、自分の担当の患者さんも何人か持ち始めました。
日々の慣れない書類業務が増えて、さらに帰りが遅くなり、ほとんど毎日10時ごろに退勤。
回復期病棟は、患者さんの在宅復帰が最終的な目標になることが多く、個々の状態に応じたサポートが求められます。
退院後の生活を想定しながら患者さんへの情報収集や、その家族への指導、時にはご自宅に伺って、環境調整などを行いました。
回復期病院は、病気の種類ごとに入院期間が決められており、この期限を超えると病院の収益が大きく減少するため、期限内に退院することが決められています。
そのため、患者さんの入れ替わりもかなり激しく、その分、書類業務が膨大になります。
昔から要領の悪い私は、他の同期よりも特に仕事を覚えるのが遅く、提出用の書類でも抜け漏れ連発。
☑️カンファレンス用紙
☑️サマリー
☑️申し送り表の作成
☑️症例発表会の準備
☑️勉強会
☑️係業務
など、普通の人は簡単にこなせることでも、ダブルタスクが苦手な私にとっては、人一倍慣れるまでに時間がかかりました。
上司からも抜け漏れを指摘される日々が続き、
「これこの前も指摘したミスだよね?なんか障害でもあるんじゃない?」
と真顔で言われたこともあります。
私は、その場で
「ちょっとあるかもしれませんね〜」
と言いながら笑うことしかできず…。
当時、悲しい気持ちになったのを思い出します。
そんなこんなで忙しい日々をこなす中、1年目の冬の12月頃に、私はある90歳の大柄なおじいちゃんを担当することになりました。
その方は、在宅復帰を目指して約3ヶ月ほどリハビリを行いました。
ある日、在宅での生活を想定して、歩行器でトイレ動作の練習を見守りのもと行うことになりました。
トイレ内の動作は全て見守りだったため、介助はせずに、近くで見守る程度で練習を行っていました。
いつものように無事にトイレも済ませ、手を洗って歩行器で扉に向かう途中。
患者さんが片手で扉を開けるのを手助けしようと、私が横から手を伸ばした際に、
「ズッドーーーーーーン」
「え…?」
患者さんは、私の視界から消え、そのまま後ろに転倒してしまいました。
私は一瞬で何が起こったか状況が理解できず、患者さんのそばに駆け寄り、
「大丈夫ですか!?」
と、声をかけました。
とにかく冷や汗が止まらない。
(えっと、こういう場合はどうしたらいいんだっけ…)
すぐに応援を呼ばなければいけないのですが、私は状況がうまく理解できずにいました。
幸いにも、近くにいた看護師が大きな音を聞き、すぐに助けにきてくれました。
「お前は怪我してないよな?一旦、手に付いた血洗ってこい!」
と、患者さんの血が、手に付着していたためすぐに手を洗いに行きました。
看護師さんが、すぐに車椅子へ移動させ、血圧測定と、耳に出血が見られたためすぐに傷口の確認を行いました。
その後すぐに担当医に報告。
「えっと、◯◯号室の◯◯さんがトイレ内で転倒されて…えっと、血圧は少し高くて…」
その時の私は、頭が真っ白だったため、会話の内容はほぼ覚えていません。
すぐに先生が傷口の手当とCT検査を実施。
数時間後に…。
「先生、◯◯さんCTの結果どうですか…?
「大丈夫、特に異常はないよ。」
私はその言葉を聞いた瞬間、一瞬「ホッ…」としましたが、同時に、
「私が殺していたかもしれない…。」
という思いが同時に襲ってきました。
当時、転倒した際に、後ろには洗面台がありました。
もう数センチ後ろで転倒していたら、洗面台にあたり、頭部を強打していた可能性も…。
そんな最悪の事態が頭をよぎった瞬間、手足がブルブルと震えました。
私は、泣きそうになりながらも、まだ午後に臨床を控えていたため
「今は絶対泣いちゃだめだ」
という思いで、グッと涙を堪えました。
お昼休みには、周りのスタッフや同期が優しく声をかけてくれ、フォローしてくれました。
「みんな、一度は経験するから、気持ちわかるよ」
「ちゃんと、正しく見守ってたんでしょ?身体も大きい方だし、あの状況で介助するのは難しいよ」
その時の私には、優しい声掛けがとても辛いものでした。
「とにかく早く1日を終わらせたい。」
午後の臨床では、患者さんに迷惑をかけたくなかったので、無理やり笑顔を作ってなんとか過ごしました。
リハビリの介入が終わった後に、患者さんのところへ状態の確認と謝罪へ行きました。
私:「失礼します…。お変わりないですか?」
患者さん:「おお!大丈夫大丈夫。びっくりしたじゃろ。」
私:「私が見守りしておきながら、すみませんでした…。」
患者さん:「わしが悪かったから、大丈夫や、心配せんでええ。」
と、笑顔で答えてくれました。
耳にガーゼを当てて処置してもらった後があり、それを見て私は、とても苦しくなりました。
その日、臨床終わりにインシデントの聞き取りの調査のために、担当の看護師の方と当時の状況を振り返りました。
状況を聞かれる途中で、私は今まで我慢していたものが溢れて、その場で大泣きしてしまいました。
さらに、私は次の日から3連休を控えており、同期3人でUSJにいく約束をしていました。
私は、
(USJなんて申し訳なくていけない…。)という大きな罪悪感から
「ごめん、明日なんだけど、私いけないわ。」
すると同期の子は、
「でもどうせ、家で今日のこと考えて病むんじゃない?そうなるぐらいなら、予定通り明日行こうよ。」
と誘ってくれました。
私は、「確かに1人でいたら考えて泣いちゃうだろうな…。」と思ったので、遊びに行くことに決めました。
次の日のUSJは、昨日の出来事がフラッシュバックのように頭によぎり、楽しめたという感覚がありませんでした。
家に帰ってからも、ずっと転倒した出来事が頭から離れずに、暗い気持ちで3連休を過ごすことになりました。
私は、それ以降
「この前みたいに転倒させてしまったらどうしよう…。」
と思い返すようになり、徐々に自分を追い詰めて行きました。
そんな日々が続き、ふと身体の異変に気づきました。
「そういえば、生理っていつきたっけ…。」
カレンダーを遡ってみると、約2ヶ月半もきていませんでした。
今まで、全く遅れることなく順調にきていた生理が、ストレスで完全にストップしてしまったのです。
私は、すぐにストレスが原因だと察知しました。
「3ヶ月経ってこなかったら病院に行こう」
そう思っていた矢先に、生理が来ました。
生理が来て安心したのも束の間、仕事の日の朝になり、いつも通り寝坊したので駅まで猛ダッシュしました。
電車に乗った瞬間、
「ん…?なんかお腹が痛いかも…。」
すぐにお腹が痛くなりました。
あいにく満員電車で、座ることができなかったため、その場で吊り革につかまり、痛みが治るのを待ちました。
でも2、3駅過ぎてもお腹の痛みは変わらず。なんなら徐々にお腹の痛みが強くなり、冷や汗がダラダラ。
(これはやばい)
と思い、すぐに電車を降りました。
なんとかベンチまで辿り着いたが、お腹の痛みはひどくなる一方。
「うぅー、、、」
周りに人はいましたが、痛みが絶頂になり声を出すことができませんでした。
ベンチで横たわっている私の姿が、酔い潰れた人に見えたのか完全に素通り。
3分ほど待ってようやく男性のサラリーマンの方が異変に気づき、
「大丈夫ですか?」
と声をかけてくれました。
意識が飛びそうになりながらも、
「あの、たすけを…よんで、ください」
すぐに近くにいた駅員を呼び、応援を要請してくれました。
明らかにただごとではない様子をみて、駅員の方に
「救急車呼びますか?」
と、聞かれましたが
生理痛の痛みで呼ぶのは恥ずかしいという思いがあったので、とりあえず駅の休憩所に車椅子で運んでもらいました。
そこから、ベットに運ばれて2時間ほど気を失った状態で過ごしました。
2時間後…。
お腹の痛みも治ったので、そのまま産婦人科へ行きました。
産婦人科医に状況を説明し、細かく精密検査をしてもらうことに。
先生:「検査の結果は特に異常ありませんでした。」
私:「明らかに今までに感じたことのない痛みだったんですが…。」
先生:「もしかしたら、過度なストレスが原因かもしれませんね。」
(やっぱりか…。)
今までの生理不順のことも先生に伝え、ピルを飲みながら調整していくことになりました。
しかし、こんな生活の中でも辛いことばかりではありませんでした。
私は、おじいちゃんやおばあちゃんにはあまり人見知りしない性格なので、すぐに打ち解けることができました。
「色が白くてかわいいねぇ。」
「本当の孫みたいだわ。」
私は、もともと童顔に見えるので、患者さんに実年齢を伝えるといつも驚かれていました。
(未だにコンビニでお酒を買うと、年齢確認されることもあります笑)
しかし、地域柄なのか、独特な個性を持った患者さんも多く、時には対応に困ることもありました。
特に、患者さんとお話しすることや、出来なかったことができるようになった喜びを一緒に共感することにやりがいも感じる場面もありました。
ただ、やはり毎日の残業に加えて、患者さんを転倒させてしまった過去もあり、
『辞めたいけど、辞めるにはかなり勇気がいる』
状態でした。
2年目になった頃から、『転職』という選択肢を考えるようになりました。
「今より残業少ないところにいけば楽になるかな」
「小児とか別の分野にいけば何か変わるかも…。」
こんな気持ちで、2年目の夏頃から転職活動を始めました。
条件としては、
☑️残業がほぼない
☑️自宅から20分以内のところ
☑️給料は今とあまり変わらないところ
☑️訪問や小児の分野
上記の要点に絞り、エージェントを活用して探してもらいました。
小児の放課後デイサービスや、回復病院、訪問リハビリなど、自宅から近い場所でいくつか候補が上がってきました。
とにかく片っ端から受けようと思い、仕事が休みの日に全部で7箇所ほど就職活動を行いました。
しかし
「2年目で転職活動するなんて甘すぎるよ」
採用担当の方に言われた言葉でした。
自分を受け入れてくれるところはなく、まさかの全落ち。
「やっぱり私を受け入れてくれるところなんてないんだ」
と思い知らされました。
それに、他の転職していった同期や先輩の話を聞いても、
『 職場に勤める以上は、人間関係や身体的な負担の悩みはかわらない 』と聞いて、なおさら気が沈みました。
結局私は転職活動を完全に諦め、今の病院で働き続けることを決意しました。
職場の先輩との出会いをきっかけに副業を開始
相変わらず、辛い毎日を過ごす中で、ある人との出会いを果たすことになったのです。
私がもといた病院は、患者1人に対して理学療法士と作業療法士の2人で担当することが必ず決まっていました。
そんな中で、1年目の冬あたりから毎回担当の患者さんが被る理学療法士の方がいました。
スタッフ1人あたりの担当患者数は6〜7名程度で、スタッフも多かったため、通常は担当の組み合わせが固定されることは珍しいことでした。
それが私の人生を大きく変えることになる「先輩」です。
最初は、
「◯◯さんの次のカンファレンスどうします?」
「◯◯さんって今、歩行器歩行どんな感じですか?」
なんて、“Theリハビリスタッフ“の会話だけ。
最初の私の印象は
「真面目で大人しい人」
「あんまり、私とは合わなさそうだし、ちょっと苦手かも…。」
と、勝手に苦手意識を持っていた私は、必要最低限の会話しかしてきませんでした。
でも、なぜか先輩と担当する患者さんはひとクセある人が多い。
・認知症のセクハラ気質の人で注意しても続けるおじさん(担当交代は基本ない...)
・20代で若いってだけで私の説明を信用する気がさらさらない亭主関白気質のおっちゃん
・女性が担当の時だけ強く当たるまるで昼ドラの嫁姑問題のような物言いをする女性の患者さん
「なんか、私たちいつも担当する患者さん変わってますよね…。」
「なんなんでしょうね笑」
と、クセのある患者さんが多いので、毎日私たちは一緒に頭を悩ませていました笑
「◯◯さん、今日も自分でセンサー飛び越えて1人でトイレ行ってたらしいですよ。」
「今日◯◯さんと、揚げ一番のお菓子10袋一緒に買いに行きました笑」
と、気づけば先輩に患者さんとのやり取りを通して面白かったことや、相談ごとまで全部話すようになりました。
いつしか、最初は苦手だった先輩が、一番素で話せる存在になりました。
理学療法士としても専門知識も持ってて、私が納得するまで説明してくれるところも尊敬してました。
そして何より「秀逸な返し」が好きで、
「先輩って、なんでそんなに面白いんですか?」
「いや、僕なんてインキャなんで面白くないっすよ。」
そんなやり取りを繰り返してました。
そんなある日。
いつものように残業していると、たまたま先輩も一緒に残って仕事をしていました。
いつものように何気なく仕事をしていると、
「仕事最近多いんですか?大丈夫です?」
と話しかけてくれました。
「ちょっと今、入院と退院の方が一気にきてて、なかなか終われないんですよね…。」
「重なる時って、マジで色々重なりますよね…。あんま無理しないようにしてくださいね。」
そんな言葉をかけられた時に私は、先輩の前で大泣きしてしまいました。
「もう、何が辛いかわからないんですけど、とにかく毎日辛いんですよね。私より仕事が多くて大変な人がいるのに…。私、作業療法士向いてないんですよね。」
すると、先輩は、
「仕事はほどほどでいいんすよ、ここで働くことが全てじゃないし。」
私は、話を聞いてもらえただけで落ち着き、
「もうちょっと頑張ってみるか」
と前向きな気持ちになりました。
そんな2年目の夏頃。
先輩が仕事を辞めるという噂を聞きつけました。
私は、あまりにも衝撃的すぎて、すぐに先輩のところへ事実確認へ。
「仕事、辞めるんですか!?」
「そうなんですよ。」
「(ガーーーーン)」
当時の私は、あまりにもショックで、私もすぐにやめてしまおうかとも思いました。
先輩が辞めるまで残り3ヶ月間は、寂しい気持ちでいっぱいで過ごしました。
そしてついに私が2年目の12月に先輩は、病院を後にすることになりました。
それから半年後…。
当時から仲の良かった女性の先輩2人と、「先輩元気かな?」と話題になり、
先輩の住む名古屋へ3人で新幹線に乗って遊びに行くことになりました。
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話題は、先輩の現在の仕事の話に。
「ところで先輩って今何してるんですか?」
「今は主に自宅でパソコンでできる仕事で生計を立ててます。フリーランスってわかりますか?」
(なんか聞いたことある…。)
「実は、父が急死して実家に帰らないといけなくなったので退職したんです。母は精神不安定で1人にしておけなかったした収入もなかったので...」
「そんなことがあったんだ...」と思いつつ、
どんな仕事をして生計立てているのか詳しく教えてもらいました。
私にとって、先輩は理想的な働き方をしていて、その時は切実に“羨ましい“という気持ちでした。
家に帰ってからも、ずっと頭から先輩の話が頭から離れずにいました。
(そういえば先輩は、ここで働くことが全てじゃないって言ってたよね…。)
(病院以外でも、働く手段ってあるんだ…。)
(私も、先輩みたいに職場に縛られない働き方できるんじゃないかな…。)
私は、次第に
「自分も先輩みたいな働き方がしたい…」
そんな気持ちが芽生えてきました。
そしてついに…
「考えても仕方がないから、先輩に直接聞こう!」
と勇気を振り絞って先輩にLINEしました。
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先輩は快く受け入れてくれて、すぐに会って話すことが決まりました。
会う当日。
実際に、私の今の悩みだったり、先輩の仕事内容、先輩がフリーランスになったきっかけなど、全てを話してくれました。
先輩は、自分で作ったコンテンツをSNSで販売するビジネスをやっていることを教えてくれました。
その中で、先輩が「マンツーマンの指導」で学んだことを初めて知りました。
私はてっきり、独学で学んで仕事を始めたと思っていたので、正直びっくり。
私:「先輩ってお金払って指導してもらってたんですね。」
先輩:「最初は自分も、せどりとかブログ自分でやってみたけど、ことごとく失敗したんすよね。」
「1年独学で色々やって、どうにもならないって思ってマンツーマンの指導をお願いした感じです。」
「独学でやるより、成功した人に教えてもらった方が圧倒的に失敗のリスクが減るんですよね。時間も独学で学ぶよりかなり爆速で進められますし。」
「後は、大きな金額払って自己投資しないと、頑張れないんですよね。自己投資したから嫌でもやらなきゃいけないし、覚悟決まります。」
普通なら少し
「SNSって怪しくない?」
「マンツーマンの先生って本当に大丈夫なの?怪しくない?」
という疑問が浮かびそうですが、私は完全に先輩を信用していたので、そんなこと微塵にも思いませんでした。
特に印象的だったのは、先輩がフリーランスの立場でありながら、会社員としての働き方を否定しなかったことです。
私が抱いていた「フリーランス=理想的な働き方」というイメージに対して、両者の長所・短所を教えてくれました。
実際に資料でも丁寧にまとめてくれました↓
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「私もやってみたい!」
とその場ですぐに伝えました。
でも、先輩から紹介されたのは意外にも「Webライター」という仕事でした。
私はてっきり先輩がやっているコンテンツ販売を紹介されるのかと思っていたので、何が何だかよくわかりませんでした。
「Webライターって何?」
その時の私は、“webライター“という名前すら知りませんでした。
先輩は、Webライターから始めた方がいい理由を詳しく教えてくれました。
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☑️再現性が高く、3ヶ月で5〜10万円稼げる
☑️医療職の知識も十分に活かせる
☑️初期投資がいらない
その時の私は、
「Webライターって文章書くだけでいいの?昔から国語は嫌いじゃないし、私にもできそうかも…。」
と、そこまで深く考えていませんでした。
私は、迷わず先輩に「信頼できる先生を紹介してほしい!」と頼み込みました。
そこから、先輩の知り合いの先生(あんさん)を紹介してもらい、3人でzoomをすることに。
zoomの当日。
あんさんから、スクールに入って学べることや、具体的にどんな生徒さんがいて、どんな実績を出しているのかも答えてくれました。
実際に説明を聞いてみて、
「本当に稼げるようになるのか…?」
という不安が大きかったです。
スクールで学ぶには、まとまった金額が必要だし、「稼げなかったらどうしよう…。」という不安が残っていました。
でも、そこで私は昔の自分を思い出しました。
・体育祭の練習でもみんなについていけなくて怒られまくったポンコツ
・「継続」という言葉は無縁で、すぐに諦めるタイプの3日坊主人間
・自分に超甘々で、努力とかそもそも無理な人間
いや、独学無理じゃね!?
『 スクールで学ぶの一択じゃん!!! 』
という思考になりました。
「毎月5万円稼げれば1年で60万円。投資した金額なんてすぐ取り返せそう」
「今のままでは絶対に後悔する」
「この状況をなんとか抜け出したい」
「自分を変えたい」
という強い思いから、思い切ってスクールに入ることを決めました。
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スクールに入ってからは、動画やあんさんとのミーティングで基礎から勉強を始めました。
最初からWebライターのスキルを勉強するのかと思いきや、
“初心者が自信をつける方法“
“自分の強みを見つける棚卸しワークシートの作成“
“個人で稼ぐためのマインドセット“
など、Webライターとして活動していくための基礎の勉強からスタート。
「自信をつける方法とか、マインドなんて勉強しなくて良くない?」
私も最初は思ったけど、実はビジネスにおいてめちゃくちゃ大事なことなんですよね。
自信やマインドがなければ、そもそも高単価の案件なんて取れませんし、いろんな仕事に挑戦できなくなります。
そうなると、収入を大きく伸ばすことなんてできないし、すぐにヘコタレて挫折します。
あんさんからは、独学では絶対に思いつかないようなことをたくさん教えてもらいました。
こんな感じで、勉強しながら同時に、「クラウドワークス」という媒体に登録して、お仕事の獲得に向けて同時に動き出しました。
スクールに入った初月にお仕事を獲得したのは、
「精神疾患に関する記事の制作」
でした。
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作業療法士としての知識を活かすことができたので、人生で初めて
『 医療の資格を持ってて良かった…。 』
と思ったのを今でも覚えています。
初月の収益は、手取りで
『 16,017円 』
私は、作業療法士としての仕事以外で稼いだのは始めてで、
「自分の力で稼げるんだ」
という自信に少しだけ繋がりました。
私は、この時点で職場の上司に
「半年後の3月いっぱいで退職します」
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とついに宣言しました。
ずっと2年以上言えなかった言葉が、副業を始めて1ヶ月で言えたんです。
(内心緊張しすぎてめちゃ汗かいてましたw)
でも、宣言したからには副業を頑張る以外の選択肢はなく、
必死に時間を作って、どんどん案件に応募していきました。
2ヶ月目には、手取りで「44,755円」
半年後には手取りで「156,059円」と医療職の給料に近づいていきました。
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もちろん、本業をしながらになるので時には朝まで執筆してそのまま仕事に行く、なんてこともありました。
でも、医療職とは違って頑張った分だけ給料に反映されるので、どこまでも私をやる気にさせてくれました。
もちろん「今日はもうやりたくないな〜」とモチベーションが下がることも。
そんな時は、講師の先生はもちろん、スクールの仲間のみんなと交流して、お互いに刺激し合うことで、モチベーションを維持できました。
スクールの生徒たちはとにかく熱量がすごい。
「作業報告部屋」という、自由に発言できるチェットルームがあるのですが、そこでは、みんなの仕事の現状報告や、嬉しかったことなどがどんどん報告されていきます。
私が、最近コーヒーマシンを買ったことを紹介したら、おすすめの豆を紹介してくれたり笑
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本当にみんな熱量がすごくて、「私も頑張らないと!」という気持ちにさせてくれます。
私が副業をする上で一番大事だと思うことは環境です。
一緒に頑張ってくれるスクールの仲間がいるから、『1人じゃない』という安心感があります。
こんな感じでスクールの皆さんから、成果報告がバンバンあがってきます↓
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みんなの頑張っている姿を間近でみられるので、モチベーションが本当に下がりにくいんです。
後は講師の先生から毎週の週の始めにメッセージが飛んでくるのですが、それが私に毎回ブッ刺さりまくりで毎週の楽しみになっています。
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こんな感じでちょっと家でごろごろしていても、「ピコン♩」と作業報告部屋で報告があがると、
「やば!やらなきゃ!!」
と私をやる気にさせてくれます。🔥🔥🔥
そして、何よりも「わからないことがあればすぐに聞ける環境」は強いです。
Webライターで挫折する人の特徴として、
・仕事がなかなか取れない
・低単価&納期に追われて疲弊
・SNSの成功している人と比べて落ち込む
などがほとんどです。
教えてくれる講師の方がいれば、正しい方向へ導いてくれるので、上記のようなことがあっても軌道修正ができるんですよね。
特に私は昔から、
「飽きっぽい」
「長続きしない」
という性格なので、スクールに入らないと「諦める未来」が見えていました。
成功した人から教えてもらえると、まず「失敗すること」はないので、スクールに入ると最短最速で結果が出ると思っています。
(実際、1人でプログラミングの勉強しましたが、2週間で挫折していますw)
ただ、どんなスクールに入っても結果が出るとは限りません。
特に「簡単・楽・すぐに稼げる」の3拍子を謳っている人は要注意。
まずは、
自分にとって『信頼できる人』を探すのが大切です。
私が信頼できる人は、「先輩」でした。
でも多くの人は、身近にフリーランスになっている人は、中々いないはずです。
なので、私自身がそんな体験をしたからこそ、みなさんにも『Webライター』の素晴らしさを知ってもらいたいと思っています。
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副業開始半年でフリーランスへ転向
副業からWebライターを始めて、半年後にWebライターとして独立しました。
周りの人からは「半年で独立って早いね」という声を頂きます。
私は、副業を始めた1ヶ月後に上司に仕事を辞めると宣言したので、
『 フリーランスにならざるを得なかった 』
という状況でした笑
今思えば、あの時上司に辞めると宣言していなければ、副業もあそこまで頑張れていないと思います。
私は、「半年後には収入がなくなる」という状況を自分で作っていたので、とにかくやらなくちゃいけない状況だったのです。
そういった点で「環境は大事だな」と身に染みています。
今は、Webライターとして活動しているだけでなく、記事を添削したり、ライターを管理する「Webディレクター」としてもお仕事しています。
まだまだ、日々勉強中ですが、自分の知識が広がりいろんなことに挑戦できるので、毎日楽しくお仕事しています。
フリーランスになってもうすぐ1年。
私の中で、フリーランスになって良かったことは
『どんな場所でも仕事ができること』です。
調子悪い時は無理せず家でゆっくり仕事できるし、自分の休日を自由に決められる。
私は、もともとカフェに行くのが大好きなのですが、
自分のお気に入りのカフェで仕事ができるのが幸せです。
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最近では、ずっと憧れだった東京の高層ビルで景色をみながら仕事をすることが叶いました笑
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また、仕事の場所は問われないので、いつでも好きな時に実家に帰れるのも大きなメリットだなと思います。
私の実家は、長崎の端っこにあるのですが、新幹線とバスを使って帰るのに合計で7時間以上かかります。
医療職時代は、まとまった休みをとることが難しかったので、3年間働いたうち帰ったのはたった2回笑
でも、フリーランスになってからすでに3回帰りました笑
うちの実家には、3代目になる愛犬がいるのですが、愛犬に会える回数が増えたのが何より嬉しいですね。
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後はおじいちゃんおばあちゃんに会える回数が増えたのもすごく嬉しかったです。
(昔からおじいちゃんおばあちゃんっ子です)
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いつ、何があるかわからないので、会える時にたくさん会えるようになったのは本当に嬉しいです。
実家に帰ってからは、2週間以上滞在するので、もちろん両親も喜びます。
今の仕事を話す前は、「反対されるかな?」とも思ったのですが、
やはり帰ってくる回数が増えたのと、間近でパソコンを必死に触っている私をみて反対されるどころか、仕事がしやすい環境になるように協力までしてくれています。
もちろん、金銭面でも変化はありました。
今では、医療職の収入を超えて安定して稼げるようになりました。
起きてすぐ、パジャマとノーメイクで仕事が始められるのもかなり強いです。
精神面もかなり安定しましたね。
医療職の時はあんなに不順だった生理も毎月安定してくるようになりました。
(仕事辞めた翌月から生理周期が安定したのはかなりびっくり笑)
今ではピルを飲むのも卒業できました。
また、「明日仕事行きたくないな…。」と休み日の夕方に憂鬱になっていたのですが、それが全くなくなったのもかなり大きいです。
もし、あの時先輩にお願いして副業のことを教えてもらえなかったら、今でも辛い思いをしながら職場に行っている場面が想像できて震えます。
毎日モヤモヤしながら、「本当にこのままでいいんか…?」と自問自答していることでしょう。
でもあの時、勇気を出して一歩前に踏み出せたから、目標のある充実した人生を送れています。
私が、皆さんにお伝えしたいことは、
『 副業は20代のうちに始めた方がいい 』
ということです。
「もう少し落ち着いてから副業やろうかな」
「いつか始めなきゃとは思うんだけどねぇ…。」
なんて声をよく耳にします。
私からお伝えできることは、
“まじで、今すぐ副業始めてください“
私がここまでいうのには理由があります。
例えば、30代で育児しながらの副業だと、いろんなしがらみが出てきます。
ライフイベントと重なって、時間的、精神的にもかなりキツい。
かといって40代、50代は身体の不調が出てくるので、あんまり無理はできない…。
でも20代は、自分のことだけ考えればいいし、自分だけの意志で副業も始められる。
多少寝不足が続いても、全然耐えられるし、失敗しても軌道修正できる。
新しく仕事を覚えるのにも、20代は吸収力があるから、スキルアップもしやすい。
“20代全員、今すぐWebライターやればいい“
とすら思います。
そもそも医療職は、“国家資格“持ってるからつよつよなんですよ。
失敗してもいつでも医療職に戻れるし、時給2,000円以上もらえるアルバイトもありますしね。
バイトしながら、副業やるなんて選択肢もあります。
もうやらない理由はないですよね??
後は、会社に依存しない自分の好きなことで働けるスキルを習得してほしいです。
長い人生、どうせ30年以上仕事するなら、自分の価値をどんどん高められる仕事をしたいと思いませんか?
まずは、1日10分でもいいです。
とにかく、副業に向けて動き出してください。
わからないことがあれば、私にXのDMでもいいので、連絡ください。↓
https://x.com/miki_web4
スクールを売りつけたりしないので安心して下さい。単純に過去の自分と同じ悩みを持つ人の手助けをしたいだけなのでご心配なく😊
読んだ感想など送ってくれるとすごく嬉しいです🙇
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将来、「あの時の自分、頑張っていてほんとうに良かった」と思えるように、今この瞬間から、動き出しましょう。
今後の挑戦に向けて
今年の4月で、フリーランス2年目になります。
今年は、
『月100万円を稼げるようになる』
を目標にしています。
あと今年は、海外旅行にも行きたいですね。
人生初のヨーロッパ旅行✨
「スイスに行ったことあるよ〜」って人は、ぜひおすすめの観光地や、料理など教えてくれたら嬉しいです笑
オーストラリアに長期滞在する夢もあります。
これからも、Webライターからスキルを横展開して、日々挑戦しながら人生楽しんで行きます♩
「とにかく現状を変えたい」
「副業するか迷っている」
という人は、このnoteをきっかけに一歩前進できたら嬉しいです。
ここまで読んで頂きありがとうございました!
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