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息をするように

『世の中には、息をするように嘘をつく人がいるのよ。そんな人は平気で人を騙しちゃうの』
 母からそんな話をきいたのは、私が中学生の頃だっただろうか。
 母は平凡な主婦だった。育ちのよさゆえにおっとりしているように見えながら、妙にさかしいところがあった。裕福な家庭にありがちな複雑さの中で、さまざまな思いを消化して大人になったのかもしれない。
 母はこうも言った。
『嘘をつかれたら、はいはいって言っておけばいいの。騙されたふりをしていればいいのよ。でも、仁美ひとみちゃんが……』
 その続きが、どうしても思い出せない。母はなんと言おうとしたのだろう。

「香奈ちゃんママ、おはよう!」
 突然後ろからそう声をかけられた。振り向くまでもなく、篠崎るみ子の声だとわかる。
「あ、篠崎さん、おはようございます」 
 私はあえて駿太くんママ、とは呼ばない。篠崎さんが私を木下さんと呼ばないように。
「いつまでも寒いわねえ、もう三月なのに」と、篠崎さんはけらけらと笑いながら言う。
 お互いの子どもが幼稚園バスに乗ったのを見届けたあと、私たちは自然と並んで歩く形になった。ちょうどいい機会だ。
「本当に、寒いですね」そう言いながら、私はバッグからチケットを出した。
「あの、これ、よかったら」
「なあに? あ、ご主人の会社、年度末フェアやってるのね」
 私の夫は自動車販売会社に勤めている。篠崎さんがそのメーカーの車に乗っていることを知った夫から頼まれて、ときどきこんなチケットを渡さなければならない。誰かを誘うことが苦手な私にとっては嫌な役目だが、人当たりのよい篠崎さんはいつも気軽に受け取ってくれる。その日も「駿太と行くわね」と言ってくれた。
 篠崎さんはシングルマザーだ。一人息子が幼稚園に行っている間は働くでもなくのんびりと過ごしているようだから、別れたご主人から十分な養育費が送られているという噂は本当なのかもしれない。そのことを羨ましく、または妬ましく思う他の母親たちからは、少し浮いた存在でもある。
 ママ友とあまり付き合わない私も、別の意味で浮いているに違いない。幼いころから引っ込み思案だったから、見合い結婚して以降ずっと専業主婦をさせてくれている夫には感謝している。だから、同居している義母の世話を任されても、母が亡くなってから一人暮らしをしている父のところにあまり行けなくても、我慢しなくてはいけない。こうしてチケットを人に渡すことも。

 月曜日は夫の仕事は休みだ。特に趣味のない夫は昼まで寝たり、たまに娘と遊んでくれたりしたものだが、最近は出勤することが多い。車を買ってくれそうな客がいたら休日出勤もやむをえないと言われたら、がんばってねと言うほかはない。
 その日も月曜日だったが、夫は朝から出勤した。私はいつものように香奈を幼稚園バスに乗せたあと、電車で三十分ほどの繁華街に向かった。義母に頼まれた買い物をするために。
 人混みは苦手だが、華やかな街を見るのは嫌いではない。最後に夫と街を歩いたのはいったい何年前のことだったか。百貨店の紙袋を手にそんなことを考えながら歩いていると、人の波の向こうに夫の顔が見えた。

 ターミナル駅を起点に延びている地下街は、人が多くてまっすぐに歩けないほどだ。それなのに夫の姿はすぐわかった。それほど背が高いわけでもないのにすぐ目についたのは、やはり家族だからなのだろう。
 夫は私に気づいていない。驚かせてやろうかな。少し愉快になった私は、夫から見えないようにそうっと近づいていった。
 その時、もう一人の知った顔が視界に飛び込んできた。今朝の幼稚園バス乗り場で子どもを見送ったあとすぐに帰った、あの人だ。夫とその人は寄り添って楽しげに歩いている。
「あっ!」
 夫とその人が、同時に声をあげた。つないでいた手をパッとはなしたのを、私は見逃さなかった。

「まあ、香奈ちゃんママ!」と、篠崎るみ子はにこやかに笑いかける。
「奇遇ねえ。さっきご主人にばったりお会いしたのよ。私、道に迷っちゃって、駅まで案内してもらってたの」
 動じる様子もなくこんなふうに話せるのは、彼女が生まれもった才能なのだろうか。隣の夫ときたら、ただおろおろしているだけだ。
「いやあねえ、香奈ちゃんパパ。ママさんに変に思われちゃうわよお」
 篠崎さんは夫と私を見比べながら、さもおかしそうに話す。その瞬間、私の脳裏に母の声が聞こえた。

『でも、仁美ちゃんがあんまり酷い目にあったら、我慢しちゃだめよ。懲らしめてやらなきゃわからない人もいるのよ』
 あの時、母はそう言ったのだ。

 私は口角を上げ、二人に正面から向き合った。
「篠崎さん、主人が役に立ったようで何よりでした。主人ときたら、年度末だからって一人でも多くのお客様を捕まえようと必死なんですよ。失礼がなかったかしら?」
 息をするように話す私の顔を、二人は無言で見つめた。


〈了〉
1,998字



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