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いちかの挨拶

やっほー! いちかだよ!

挨拶って必要? 不要?

こんな論争が密かにひっそりとされているなか、わたしは断然必要だと思ってる人なんだよ。

誰でもできる基本的なことができない子が、それ以上のなにができる。

小さい頃に、父親によくしつけられていた。
わたしが挨拶をしなければ、正面に仁王立ちをして、おはよう、と物凄い圧力を掛けてきたことを思い出す。就寝前もおやすみの挨拶をしに、父の元へいき、ハグをしてからベッドへいくという習慣を、小学生の高学年まで続けていた。よくグレなかったとおもう笑

わたしの父親は、もしかしたら世間でいう、毒親なのかもしれない。そのあたりの所作や作法については、ちびるくらい厳しくて、お箸の使い方を間違えようものなら、向かいから父の箸がぶっとんできたし、下着で部屋を徘徊しようものなら、ビンタが炸裂した。もしかしたら、わたしは実の子ではないんじゃないだろうかと、弟を連れて市役所で確認をしたこともある。そのくらい厳しい父親だった。

その厳しい教育のお陰で、わたしの所作や作法のほとんどには、さほど特別な理由なんてない。そうしなくてはいけない、いわゆる常識という概念が存在するだけで、もはやそれは癖のようなものにまでなっていたりする。その中に挨拶がある。

おはよ。頂きます。よろしく。

これらはわたしにとっては、生きていくために呼吸をする動作と、なんら変わりがないことだったから、挨拶をしない人と出会った時の衝撃は計り知れなかった。

なんで挨拶しないんだろう、どうして返してくれないんだろうと、とても不思議に思ったことがある。そうした人と出会うと、わたしがなにか悪いことをしてしまったのかとか、嫌われているんじゃないかと、苛立ちや怒りより先に、そういう悲しい気持ちになることが多かった。すると、そういう人と接するのを避けるようになるし、避けられない場合は、やたらと気を遣ってしんどくなってくる。

意味がないとか、面倒くさいなど、挨拶をしない人の中には、理由や信念がある人もいる。いっぽうで挨拶をするわたしには理由なんてない。それは意外なことにわたしだけじゃなかった。挨拶をする人のほとんどが、する理由なんて考える人は少ないみたい。当たり前のようにしているだけのことが多いようだ。たぶん、幼い頃からなにかしら挨拶についての教育を受けてきたから、それが自然体なんだとおもう。

こうしたことから、挨拶をする理由について考えてみると、わたしの経験から相手に悲しい思いや、余計な気を遣わせたくない配慮だという理由がひとつあげられる。言い換えれば、挨拶をするという行為は、相手にいらない心配をさせない、つまり、敵じゃないことや、怪しい者じゃないという意思表示なんだろう。それなら挨拶をされたら挨拶を返す意味もわかりやすくて、お互いにそうした意思表示をし、敵意がないことを確認し合っているという説明もつく気がする。

「おはよ。今日寒いね」のように、返した側がそのまま会話を続けるなんてことも散見する。他愛のない話でも、会話のとっかかりとしても利用できる挨拶は、円滑にコミュニケーションをはかるためのスキルだということもわかってくる。だから、親密な間柄であれば省略をしても差し支えないんだとおもう。逆にまだ相手をよく知らない間柄なら、より重要になってくるし、不特定、特定の複数がいる場所では、必要になることも自然と説明がつく。

なんだかんだと言っても、挨拶をしない人はしないんじゃなくて、できない人なんだとおもった。その能力のなさに色々とそれらしい言い訳を重ねるから、彼らには挨拶をしない理由があるだけなんだとおもう。そう考えると、いくらかマシな気がするけど、かわいそうでもある。

やっぱり、悲しい気持ちになるのは、かわらないのかな。

今日はここまで。じゃ、またね。ばいばい。

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