初めて火牛の計を行った将軍は?
桂陵の戦い
田斉が成立したころは魏が勢力を誇っていました。
田和の孫の田因斉は鄒忌(すうき)を相国に、田忌や孫臏(そんぴん)を将軍とします。
ちなみに、孫臏は孫氏の兵法で有名な孫武の子孫で、孫臏兵法の作者とされています。
BC354年に魏は趙の都の邯鄲を攻めます。趙は斉に援軍を求め、田因斉は孫臏を派遣。
孫臏は魏の都の大梁が手薄と見て大梁を攻撃。大梁は今の開封市。
魏軍の龐涓は邯鄲の包囲を解いて大梁に戻ろうとしますが、桂陵で待ち伏せした孫臏に大敗し、捕虜となります。
桂陵は今の河南省新郷市長垣市。
この孫臏の策は「囲魏救趙」として後世に伝えられました。
ちなみに孫臏と龐涓は同門で、龐涓は孫臏に劣等感を持っていて、孫臏を冤罪に陥れています。
孫臏は両足を切断されますが、魏から脱出して斉の将軍となったわけです。
馬陵の戦い
ところが、BC352年、魏と韓の連合軍は斉の襄陵城を攻めて斉は大敗。
襄陵は河南省商丘市睢県。
斉は楚に調停を依頼し、魏は邯鄲を趙に返還し、斉は捕虜の龐涓を魏に帰すことになりました。
BC342年、魏に滅ぼされそうになった韓は斉に援軍を要請。
今回は孫臏は自分ではなくて田忌に魏を攻撃させます。
前回同様、魏の侵攻軍は引き返しますが、田忌に撤退しながらかまどの数を減らすようにさせます。
魏軍を指揮する龐涓はかまどの数が減っているのは逃亡兵が増えているからだと判断し、騎兵のみで斉軍を急追。
孫臏は龐涓が夜になって馬陵に着くだろうと判断し、白木に「龐涓この樹下に死す」と大書し、周辺に1万の弓兵を伏兵として配置。
魏軍が到着し、火をともして文字を読もうとしたところを弓兵が攻撃し、龐涓は戦死。孫臏は復讐を果たしたことになります。
馬陵は山東省臨沂市郯城県。これで魏に代わり斉が覇者となります。
BC334から田因斉は威王を自称。
第1次函谷関の戦い
BC314年、斉を中心とする5か国は内紛に乗じて燕に侵攻し、略奪します。
BC301年、斉、韓、魏が楚に大勝。
BC298年、斉、韓、魏の合従軍が秦の函谷関を攻めるも抜けずに秦と和解します。
BC288年、秦の昭襄王は西帝を、斉の威王は東帝を名乗って趙を攻撃。ただし、その年のうちに王号に復しましたが。
BC286年、斉は内乱に乗じて宋を滅ぼし、斉は全盛期を迎えます。
合従軍に大敗
好事魔多しと言うように、斉の強大化を不安に感じた各国は、それぞれの間の戦いを止め、燕、秦、韓、趙、魏の五か国の合従軍を編成。
BC284年、斉は済西の戦いで燕の楽毅(がくき)を総大将とする合従軍に大敗。
BC314年の斉による略奪を恨みに思う燕軍は斉国内に侵攻し、莒(きょ)と即墨の2城を残して斉を占領します。
翌年、殺された湣王の子が襄王に即位し、莒で籠城します。
莒は昔の莒国の都城で防御に優れていたようです。山東省日照市莒県。
即墨では公族である田単が指揮して籠城を続けます。即墨は海の近く。山東省青島市即墨区。
結局、楽毅は占領地の内政を重視し、莒も即墨も落とせないまま5年が過ぎます。
反間の計 火牛の計
BC279年に燕の昭王が逝去し、恵王が即位すると、楽毅を嫌う恵王は楽毅を罷免し、騎劫(きごう)を将軍とします。
これは田単が燕国内で楽毅の謀反の噂を流したのを、恵王が真に受けたからだとも言われていますね。
たしかに5年も莒と即墨を落とさないのは、恵王から見ると、楽毅が斉で独立しようとしているようにも見えます。
これが有名な反間の計。
さらに田単は策を弄して即墨城内の士気を上げるとともに、燕側には場内が疲弊しているように見せかけます。
これを見て騎劫は即墨攻略のために布陣。
そして、田単は燕の将軍に個人的に賄賂を渡し、「降伏しても妻や財産を守ってほしい」と伝えて、さらに油断させます。
機が熟したと見た田単は秘密に空けていた城壁の穴から、角に刀を付けて、尾に火を点けたたいまつを付けた牛を場外に放ちます。
たいまつの火で尻を焼かれている牛はびっくりして敵陣めがけて突進。
そのあとを5000人の兵が続き、敵陣を急襲。
さらに城内の民衆が銅鑼などを打ち鳴らして大軍が来たかのように装ったために燕軍は大混乱となり、騎劫も討ち死に。
これが有名な火牛の計。後世、倶利伽羅峠の戦いなど、中国でも日本でも多くの将軍がこの策を用いています。
この結果、斉領内の残りの燕軍も浮足立ち、田単は燕に占領されていた城をすべて奪還。
こうして襄王はようやく都の臨淄に帰還できました。
斉の滅亡
田単は安平君に封じられ宰相になり善政を行います。
しかしこうなると君主側は不安になるもので、襄王の側近が田単一派を陥れようとしたりします。
取りなす人がいて、田単は冤罪を免れるのですが、襄王と同じ田氏なので居心地は悪かったようです。
その後、田単は趙で将軍となり燕や韓を攻め、最後には趙の宰相になったようです。
一方、BC265年、襄王が死ぬと子供の田建が斉の君主となりますが、実権は母親に握られていました。
母親の君王后が死ぬと族弟の后勝が実権を握りますが、この人も賄賂政治家。
最悪なのは賄賂をもらっていたのが秦だったということ。
秦が各国を滅ぼしていく間、斉は秦の侵攻に備えた軍事力強化を行っていません。
たぶん、斉には手を付けないとでも言われていたのでしょうか。
さすがにBC222年に燕が滅びると斉は秦の侵攻に備えて斉の西部に主力軍を配置します。
斉の攻略を命じられた王賁(おうほん)は旧燕領を通って北側から斉領に侵攻。
虚を突かれた斉は臨淄を落とされ、斉はあっけなく滅びました。
キングダムに出てくる李信のライバルのあの王賁ですね。
ちなみに旧斉領は秦によって斉郡と琅邪郡(ろうや)に分けられます。
琅邪は日本の皆さんには中国のテレビドラマの「琅琊榜 〜麒麟の才子、風雲起こす〜」で有名ですが、のちの東晋の創始者も琅邪王でしたよね。