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「まず隗より始めよ」の隗(かい)とは?

召公奭

中国最古の王朝は殷王朝でしたよね。

その殷王朝を打倒したのが周の武王(姫発)で、彼を補佐していたのが、呂尚(ろしょう)、周公旦(しゅうこうたん)、召公奭(しょうこうせき)の3人で、論功行賞としてそれぞれ斉、魯、奄(えん)に封じました。

斉については下記のnoteでお話しました。その中で魯についても触れている部分があります。

奄は山東半島で魯の近くと言うことですが詳細な場所はわかりません。

そもそも召公奭は召公というようにもともとの領地は召。現在の陝西省宝鶏市岐山県の南西部。長安の西、130kmくらい。

呂尚にしろ召公奭にしろ全く離れた東方の領地を与えられたのは武王から警戒されていたからかもしれません。

もっとも召公奭は燕には長男だけを行かせて自分は周の都の鎬京(長安、今の西安)に留まり、召の領地もそのまま維持していました。

ちなみに周公旦も魯には嫡子だけを行かせていますね。

燕への領地替え

周の武王は殷王朝打倒後わずか2年で崩御し、成王が後を継ぎます。

しばらくは国内で反乱が相次ぎますが、その後、召公奭の一族は燕に領地替えになったようです。

そのときに、固安(現在の河北省廊坊市固安県)に封じられていた成王の弟の韓叔の韓侯国と召との領地交換を行ったようです。

召公奭の一族は固安ではなく薊を都とします。

さて、この国を燕と呼びます。領地は現在の河北省北部にあたります。

薊(けい)は現在の北京市房山区。実は北京も古い都でしたね

薊は固安の北方50km。。

文献にも記載がなく詳細は不明ですが、周の成王は弟を自分の近くに置きたかったのではないでしょうか。

周公旦は成王の摂政として反乱の鎮圧などに尽力したので、魯の領地を広げて、そのあおりを食って召公奭の一族はより北へ追いやられたと思われます。

ちなみに韓叔について行かなかった一族もいたようで、燕の貴族層には韓を名字とする人が多くいます。

春秋時代の燕

ともかく、北東の辺境の燕については中央政権からは重要視されていなかったようで、ほとんど文献には出てきません。

BC664年に燕が北方の山戎(さんじゅう)に攻められたとき、燕の荘公は斉の桓公に援軍を要請。

斉軍は山戎を撃破し、荘公は帰国する斉軍を見送りに行きます。

そのとき荘公は斉との国境を越えてしまいます。

天子(周王)は配下の諸侯に対して、周軍を周領内まで見送ることを許していたようですが、桓公は覇者であっても天子ではありません。

そのことを宰相の管仲に指摘された桓公は、荘公が入った分の領地を燕に授けます。

これで桓公の名声が高まったという話でした。

ちなみに山戎はアルタイ語族の遊牧民ですが詳細は不明。

斉に攻められる

春秋時代の燕の詳細は不明な点が多いのですが、強国の斉などと良好な関係を築きながら周辺の小国を併合していったものと思われます。

BC539年に燕の恵公は臣下の大夫たちと対立し、寵臣の殺害を機に斉に亡命。

BC536年、斉の景公は晋と共同で燕に出兵し、燕は敗北し、恵公は帰国を果たしますが、まもなく崩御。

時代はかなり下って、文公の子の脮は秦の恵文王の公女を后に迎えBC333年に即位し、BC323年,彼は王を称しました。しかし、翌年、この易王は崩御。

各国が王を名乗りようになったので、燕も王を名乗ろうということでしょう。

この易王の子の燕王噲(かい)は政治を宰相の子之に任せきりに。

BC314年、燕王噲が子之に王位を譲ると、太子平と子之は対立し燕は内乱状態になります。

これを好機と見た斉の宣王は公子職を支援することを口実に匡章将軍を派遣し、燕の都の薊は陥落。

燕王噲も子之も殺害されて燕は君主が存在しない滅亡状態になります。

「隗より始めよ」

公子職はBC312年、斉に服属することを条件に王位につきます(昭王)。

昭王は富国強兵を謀り斉に復讐することを考え、学者の郭隗(かくかい)に相談します。

そのとき、郭隗は自分のような愚者を優遇すれば各地から優れた政治家や武人が集まってくるでしょうと言います。

昭王は郭隗の策を採用すると、その後、魏の楽毅将軍や、趙の政治家の劇辛などが昭王のもとに集まってきます。

これが「隗より始めよ」の故事成語の由来ですね。

これらの人材を用いて昭王は燕の再建を進め、内政の体制を整え、北方の東湖を討って、東西2000里にもおよぶ長城(燕の長城)を築きます。

東湖の詳細も不明ですが、烏桓、鮮卑、柔然、契丹が東湖の後継と史書に記されていることから、東湖もモンゴル系の遊牧民族という説が有力のようです。

ちなみに東湖は匈奴に滅ぼされたようです。

斉を攻略

BC286年、斉は宋の内乱に介入して宋を滅ぼし、楚などの各国への侵攻を行います。

BC284年、各国が宋の滅亡に危機感を持つ中、実力をつけた燕は秦、韓、趙、魏の5か国の合従軍を編成し、上将軍の楽毅に指揮をさせて斉に侵攻させました。

連戦で疲弊していた斉軍は済水の西で大敗します。

この時点で合従軍は解散し、秦軍と韓軍は帰国し、魏軍は宋に向かい、趙軍は河間を占領します。

楽毅率いる燕軍は斉軍を追撃し、斉の都の臨淄を攻略しました。

ちなみに、楚は淖歯将軍を斉に派遣し、斉に占領されていた淮北を奪還します。

これで斉は襄王がこもる莒(きょ)と即墨の2城を残すのみとなりました。

楽毅 逃亡

しかしながら、莒と皇族の田単が守る即墨は5年たっても落ちません。

昭王が死んで子の恵王が即位すると、恵王は2城を落とせない楽毅のことを疑い始めます。

これは田単が仕掛けた反間の計に恵王がかかったからだとも言われていますね。

2城が落ちなかったのは楽毅が、占領した斉の安定を優先したからだというのが後世の歴史家の多数意見です。

ちなみにどの国にも火急の時に皇族を逃がすための城があるのが普通で、莒と即墨もそのような城であったと思われます。

ですから、長期の籠城にも耐えるような設計がなされており、備蓄も十分にあったのではないでしょうか。

ともかく、命の危険を感じた楽毅は趙に逃亡。

楽毅がいなくなった燕の占領軍は動揺し、BC279年、田単らの反撃によって斉軍は敗北し、帰国しました。

燕の滅亡

せっかく占領した山東半島の領土を奪い返された燕ですが、もともとの領土のほかに斉が領有していた朝鮮半島の領地を加えて、燕は大国であり続けます。

しかし、戦国末期になると秦が台頭してきます。

紀元前241年、趙、楚、魏、韓、燕の五か国合従軍は秦を攻めますが函谷関を突破できませんでした(第2次函谷関の戦い)。

この後、BC236年、秦は趙に侵攻し、趙の都の鄴は陥落。

BC230年には韓が秦によって滅ぼされます。

そして、頑強に抵抗していた趙の李牧は秦の反間の計により趙の幽繆王に捕らえられ殺されてしまいます。

案の定、BC228年、秦により趙は滅亡します。

この間、燕は積極的には趙や韓を助けていません。

秦を敵に回したくなかったからだと思われますが、中華統一に燃える秦王政が燕を見逃すはずがありません。

BC227年、切羽詰まった燕の太子丹は秦王政に刺客を送りますが失敗。

秦に絶好の口実を与えてしまった燕は、秦の大軍に攻められ、趙の遺臣らが立てた代とともに抗戦しますが、翌年、都の薊は陥落。

燕王喜は遼東に逃亡しました。

燕王喜は暗殺を企てた太子丹の首を秦に送って恭順の意を表しますが、BC222年、燕王喜がいた平壌も陥落し、燕王喜も捕らえられ燕は滅亡しました。

燕のその後

北東の辺境を領地とした燕は、中原諸国の抗争にあまり関わらずに国力を増大させましたが、隣の大国である斉と関わるようになって滅亡の危機に瀕しました。

昭王のもと再建した燕は合従軍を編成して斉を滅亡一歩手前まで追い詰めますが、恵王と楽毅の対立により斉を復活させてしまいます。

その後も広い領土を維持していた燕でしたが、結局、秦王政の中華統一の野望の前に滅亡の憂き目に遭いました。

ちなみに、始皇帝の死後、動乱の中で韓広、臧荼(ぞうと)、盧綰(ろわん)が順に燕王に封じられましたが、BC195年、盧綰の匈奴への亡命を機に燕国は廃止されて前漢の郡県制度に組み入れられました。

また、朝鮮半島での最初の国家と言われる衛氏朝鮮は燕人の衛満が創始者と言われています。

史記では衛満は盧綰の部下と書かれていますね。







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