母から監督へ その11(孫ができても変わらぬ父)

ぼくゼロ書籍化を目指して、とこちょ。とリレー形式で続けている「監督と母の往復書簡」。
今は、お互いの生い立ちについてを書いています。
前回のとこちょ。の回では、とこちょ。が国際結婚をされた理由も解明されたし、生きて来た道のりが私の世界とは全く異なる事を知りました。

ぼくゼロの母は、なぜ子供からのカミングアウトに動じなかったのか?
幼少期から25才まで実母から5番目の母までの事を書いて来ました。
今回はそれからの事をお伝えしていきます。

子供時代からのストレスによる体の不調が続いていた事、心身症一歩手前にまでなった事、卵巣の生育にまで影響が出ていた事で、実母から家を離れるように勧められ、私自身も自分の身体について考えるようになりました。

10才年上の5番目の母(4人目の継母)は、お酒を飲んで生活に支障が出てしまう事もあったけれど、平常時には父の身の回りの事をしてくれていました。
父も再婚は最後のつもりだったのか?5番目の母とは仲もよく、今までより優しく接しているように感じました。
そして、5番目の母から「お父さんが何度も離婚を繰り返したのは、あなたがいたからじゃない? あなたがいたからうまくいかなかったんじゃないか?」と言われた事もあり、私は家を出る事を決めました。
私が家を出る事で、5番目の母と私の折り合いが悪いのではないか?と、父は5番目の母への風評を心配していましたが、多分、私がいない方が暮らしやすいんだろうなと思ったので、私は家を出てアパートで一人暮らしを始めました。

サクッと端折りますが・・・

それから27才で結婚して、29才で上の子を出産しました。
その頃、熱海にいた実母は家族で横浜市に引っ越していて、それまでより多く会うようになりました。
上の子が3才くらいの時、5番目の母のアルコール依存症がかなり酷くなり、父から、お前たちが来てくれたら話し相手もできるし環境も変わって、よくなるかもしれない、仕事で家を空けている間、火事にでもなったら心配だからと、私達に引っ越してくるように話しがありました。
もともと賃貸用に建てた店舗兼住宅なので、隣の実家とは2世帯住宅のような感じでお風呂だけ共有、家賃も浮くしと安易な気持ちで私たち家族は実家の隣の家に入りました。
引っ越して来てしばらくは、おかずを分け合ったり、実家で賑やかに食事をしたり楽しい時間を過ごす事もあったのですが、やはり、離れて暮らしていたら聞かずに済んだ2人からの愚痴や、父の怒鳴り声を聞くようになり隣に暮らすことに少し後悔の気持ちもありました。
そして、私たち夫婦は、表面上はうまく行っているように見えていましたが、実はどこかで疑問を感じることが度々ありました。が、この辺は伏せておきましょう(笑)

ぼくゼロ主人公の空雅がお腹に宿った頃、5番目の母のアルコール依存は手に負えなくなり横浜の馬車道にあったアルコール専門病院で治療を始めました。
「お前が先生の話を聞いてくれ」と言われ、父の車で上の子も連れて何度か一緒に、病院に行きました。
機嫌のいい時と悪い時の落差が激しい父は、笑っていたかと思うと、急に怒鳴り出します。相変わらずスイッチがわからない。
私は隣に住んでいても常にその気配を気にしながら暮らしていました。
人間は歳を取ると丸くなるとか、孫は目に入れても痛くないほど可愛いとか言いますが、全くそんなことは通用しません。
機嫌が悪くなると孫を怒鳴り飛ばすし、玄関に鍵をかけて無言で「入ってくるな」オーラ全開にするような人でした。

トランスジェンダーの原因に母親のストレス(ホルモンシャワー説)と言う説がありますが、もしそれが本当なら、心当たりは有り過ぎます。

上の子は言葉も早く、聞き分けもいい子でした。
こだわりが強いのは感じていました。
上の子が4才8ヶ月の時に、空雅は次女として元気に誕生しました。

さて・・・この後、離婚してシングルマザーになるくみちょ。
この続きは、また来週に・・・


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