母から監督へ その10(強くなる事を誓った)

ぼくゼロの母は、なぜ子供からのカミングアウトに動じなかったのか?
前回は2番目の母(継母)3番目の母(二人目の継母)について書きました。
今回は4番目の母と5番目の母について書いていこうと思います。

高校2年か3年の頃、学校から帰宅すると見知らぬ女性が父と一緒に家にいました。父から「新しいお母さんだから」と紹介されたのを覚えています。
その人は、バツイチで子供二人は別れた旦那さんが育てているとの事でした。
4番目の母もキャバレーのホステスさんだったようです。風俗でお仕事をされていた事もあったとか。
私は職業への偏見はないので、だからどうって事は全く感じませんでした。

4番目の母は、家の事もある程度してくれる人でしたから、その点は楽でした。
4番目の母がスナックをやりたいと言って、父は1000万だったかな?借金をして自宅敷地内に1階が店舗、2階が住居の家を建てました。
2階を賃貸として貸し、その家賃と店の売り上げで返済する予定でした。
高校年の私は、夕方6時から夜中12時までお店の雑用やお客さんの話し相手をして、6時間労働で1000円もらっていました。
夏休みには、私が午前中、喫茶店として店番をしていました。
サイフォンや布ドリップでコーヒーを淹れ、トーストとゆで卵、簡単なサラダ付きのモーニングを作って提供していました。
元々が素人経営で、馴染みのお客様にツケで飲ませる事も多くなり、経営はあまりうまくいきませんでした。
大音量で遅い時間までカラオケをする事が多く、2階の住人は早々に退去してしまい、家賃収入は途絶えてしまいました。
4番目の母は覚醒剤の常習者でしたから、覚醒剤を使用しているお客さんも来るようになり、店を閉めて店内で数人が覚醒剤を注射するような事もありました。
私もその光景を何度か見ていて、お客さんに「やってみるか?」と打たれそうになった事がありました。←丁重にお断りいたしましたけど。
4番目の母は、幻覚、幻聴などもあったようで、時々、包丁を持ち出して「殺してやる〜」と暴れたり、2階から「死んでやる〜」と飛び降りようとする事もありました。
毎月の返済も大変になり、父に「てめえに金がかかって仕方ねえ。学校辞めて働け」と言われて、退学届けを学校に提出しました。
親戚の人も学校に呼ばれて、校長先生や担任の先生に「なんとか卒業まで通学させられないか?」と言われました。(実は成績トップクラスで優秀だったんです)
親戚が父を説得してくれて無事に高校卒業をする事ができました。
大学への推薦入学は「金がかかる、女が大学に行くと生意気になる」と言われ、企業への就職は「家の事をやって、店を手伝え」と言われました。
結局、店は続かず、私はアルバイトを始めて家にお金を入れるようになりました。

中学生の頃から不整脈があり、胃炎だった私は時々、病院に行っていたのですが、今度は微熱が続き無気力になり、先生が緊急避難が必要と判断して入院する事になりました。
また伯父さんに来てもらい、先生の話しを一緒に聞いてもらいました。
「このまま家にいたら、この子は廃人になってしまう。海外にでも行かせられればいいのですが・・・」先生は、私の様々な症状は心因性のものであると判断したようです。
当時、飛行機事故で「逆噴射」「心身症」という言葉が流行っていたのですが、まさに「心身症」のような状態だと言われました。
数日後、父が病院に怒鳴り込んできました。
「金がかかる、退院させろ。俺の娘が気狂いになろうが廃人になろうが、てめえらには関係ねえだろ」
ナースステーションに向かって怒鳴る父の声を聞きながら、
「廃人になんかなってたまるか。私はもっと強くなる!」
と、私は心に強く誓いました。

人間は困難、課題、問題にあったときに取る行動には「逃げる」「固まる」「戦う」の3通りのパターンがあると聞いた事があります。
昔の私は常に戦う事を選んでいたようです。打たれ強いんです、ものすごく。

しばらくして4番目の母は家を出て行きました。
数年後に私の職場に、脅迫に来た事がありましたが、それはまたいつか・・・

かなり省きますが・・・父と二人での生活がしばらく続きました。
私が24歳の頃、私の10歳年上の5番目の母(四人目の継母)が家に来ました。
私は「母親が必要な年齢でもないので、どうか父の妻としてよろしくお願いします。」と手紙を書いて、5番目の母に渡しました。
それからずっとお互いの名前を「ちゃん」付けで呼んでいました。
「お酒さえ飲まなければ、いい人なのに・・・」というドラマのセリフって本当にそうだよな〜と思いました。
アルコール依存症だったので、過度に飲み過ぎてしまい、日常生活に支障が出てしまう日々がありました。
私は二人の顔色、様子を見ながら暮らしていました。

25歳の時、右側の卵巣が腫れて検査の結果「卵巣嚢腫(らんそうのうしゅ)」と診断され手術を受ける事になりました。
入院して数日、5番目の母が手術の承諾書を届けてくれるはずなのに届きません。手術前日、外出許可をもらい家に取りに行くと、5番目の母は自室の押し入れの中で缶ビールを飲んでいました。
承諾書を受け取り、病院に戻り、翌日手術を受けたのですが、入院前にはものすごく腫れていた卵巣が、家を離れ数日経過したら半分くらいに小さくなっていたそうです。
先生が「切らなくてもいいかな〜」ってボソッと呟いたのを覚えています。
結局、全摘出ではなく右卵巣の一部を切除しただけですみました。
先生の話しによると、私の卵巣はとても小さくて、発育していなかったそうです。
成長期のストレスによるホルモンバランスが原因ではないか?と言われました。
退院後、私はある決断をしました。

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どこまで書いて、何を削ろうか、本当に迷いながら書かせていただいてます。
きっと、とこちょ。から質問がたくさん来ると思いますが、読者の皆様からも、いつでも、どこでも、どこからでも、「いきなりぽんぽん(いきぽん)」質問が来ても大丈夫です。
次回は、またとこちょ。にバトンタッチしますね〜
ありがとうございました。

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