見出し画像

イギリスに導かれた人生 My Dear UK


前回、辛かった中学校時代を支えてくれたのは、イギリスの音楽だったことを書きました。私が高校に入った80年代初頭のミュージックシーンは「第2次ブリティッシュ・インベイジョン」と呼ばれていて、イギリス勢がアメリカのヒットチャートの上位を独占していた時代。私はイギリスのビジュアル系ポップバンドの音楽を夢中で聴きまくっていました。特にミュージックビデオが大好きで、深夜に放送されていた洋楽ヒットチャートの番組(小林克也さんの「ベストヒットUSA」とか、名前忘れたけどピーター・バラカンさんの番組とか、テレ東にも深夜にひとつあった。)は、すべて録画して何度も見直していました。

今は洋楽も邦楽も両方聞くリスナーが多いと思いますが、当時は洋楽ファンと邦楽ファンははっきりと分かれていたんです。しかも洋楽ファンは、たぶんクラスに1割いるかいないか?のマイノリティ。お互いに洋楽ファンだとわかると、すぐに意気投合して音楽談義に花を咲かせていました。授業をサボって、クラスメートと一緒に東京まで、来日したイギリス系バンドのコンサートに行ったことも笑。こうしてお友達が少しずつでき始めました。

愛読していたのは「VIVAロック」とか「インロック」とか、ミーハーな洋楽雑誌。その中に「帰国子女が推薦するバンド特集」というのがあって、それにやたら出てきた「ICU高校生」という肩書き。「ICUって何?」と思って調べたら東京にある大学らしい。うわ、洋楽好きがわんさといそう!と思って大学もICUに決めたという笑。

大学に入ると本当に帰国子女がうようよいて、それぞれ個性的だった。これまでみんな似たり寄ったりのクラスメートたちの中で、自分の個性を持て余していた私は、それぞれが自由に振舞い、自分の意見を表現している姿をみて心底びっくりしたものです。最初はあまりのカルチャーの違いにどぎまぎすることもありましたが、すぐに私も自分の居場所を見つけました。特に人生を転回させたのは、大学2年のとき参加したイギリスツアーでした。

ICUは、イギリスの名門大学があるケンブリッジという街に宿泊施設を持っていて、夏休みを利用してそこに3週間滞在しながら、英語と英文化を学ぶツアーを毎年企画していました。2年生のときそのツアーに参加して、念願のイギリス行きが実現しました。ロンドンのヒースロー空港に到着する前、飛行機の小さい窓から見えたイギリスの風景。うねうねと続く緑地にところどころ広がる街並み。街はくねくねと入り組んだ道路の両側に、煉瓦色の屋根が整然と綺麗に並んでいました。私にはまるでおとぎの国のように見えて、その風景に釘付けでした。

いまでも、人生のなかでベストなひと月を選べと言われたら、この初めてのイギリス旅行を選びます。草を食む羊たち。アフタヌーンティー。夜の10時まで明るい夕べ。オープンエアのビュッフェパーティーにボーイズクワイア(合唱団)の歌声。イングリッシュ・ガーデンに、中世のお城へのエクスカーション(遠足)。毎日毎日ミラクルの連続で、私はすっかりイギリスという国に恋をしてしまいました。

大学3年生のときには、半年間休学をしてイギリスの英語学校に通いました。イギリスを離れたくなくて、大粒の涙をこぼしながら帰りの飛行機に乗ったのを覚えています。

大学を卒業して入社したのは、イギリス系のレコード会社。最初にイギリス音楽との出会いをくれたビートルズやクイーン、デュラン・デュランやカルチャー・クラブなどビジュアル系ポップバンドが所属しているEMIというところです。そこでヴァージン Virgin というイギリスの破天荒で冒険的なレーベルで、ディレクターをすることになりました。担当になったボーイ・ジョージと一緒にゲイバーにも行ったし、イギリスに出張に行ったときは、憧れのアビー・ロード・スタジオ(ビートルズがレコーディングをしていたスタジオ)へも特権で入ることができました。

画像1

↑ デュラン・デュランのニック・ローズと(髪型と眉に時代が見えるのは見逃して〜)

画像2

↑ カルチャー・クラブのボーイ・ジョージと

アビーロード

↑ アビー・ロード・スタジオで、ジョン・レノンが使ったピアノを弾かせてもらうトコ

でもどうも、レコード会社の「ノリ」に合わなかった私は、6年間で辞め、今度はミュージックビデオを作る人になりたいと、イギリスの映画学校に留学することにしました。

私が入学したのは「ブリストル大学 ドラマ学部 映画&テレビ制作学科 MA」。1年間でしたけど、ショート映画を作って作って作りまくるという集中的な実技中心のコースでした。世界中から集まった22人のクラスメートたちは、ICUとは比べようもないくらい、それはそれは強い個性をもち、自己主張も激しい。そこかしこで紛争が勃発していました。負けると自分の作りたいものが作れない。私も一生懸命自分をアピールし、思いを伝え、時にはケンカに発展することも。でもイギリス社会のいいところは、そんなバトルをしても、夜にはサバッと一緒に飲みに行って笑いあえるところ。言いたいことをいっても、自分を強く出してもいいんだ!このイギリスでの2年間は、私にこだわり強さと粘り強さ、そして自分軸を与えてくれました(多分「いきぽん」もここで培われています笑)

Frank Chickens.00_02_31_18.静止画001

↑ 最初に課題として作った作品はこちら。フランク・チキンズというロンドンベースの日本人ガールズバンドのミュージック・ビデオを作らせてもらいました。ご笑納を。

本当は骨を埋める覚悟で渡英したのですが、金の切れ目とビザの切れ目は縁の切れ目。残念ながら2年で日本に帰国。イギリスに戻るには、日本でイギリス人男性を見つけて連れていってもらうしかないと浅はかに考えた私は、当時婚活という言葉はなかったけど婚活を開始し、東京中のイギリス人男性に声をかけまくりました。ラッキーなことにひとりひっかかり、半年後にはプロポーズされました。ただしその人は日本に住みたいイギリス人だったので、それからもずっと日本にいるハメになりました笑

仕事の面では、ミュージックビデオを作る機会には恵まれず、なぜか一番真逆(?)のニュース番組のディレクターに落ち着きました。それから20年の時を経て「ぼくゼロ」が誕生することになります。「ぼくゼロ」のエンディングテーマには、イギリスの童謡が使われ、イギリス人の子供たちが歌っているのは、そんな私のイギリスへの愛を表現したものです。

さて、2回にわたって自分の人生をつづってみました。私は、自分をマイノリティと思って生きてきた。そしていつも自分らしさを探して、心地よい居場所をみつけようとしてきた。そんな私は、「ぼくゼロ」を作らされたのだと思っています。

次はいよいよくみちょ。の生い立ちクライマックスですね。楽しみです。

###


いいなと思ったら応援しよう!