彼らの沈黙と笑顔を理解するために ー野澤和弘先生ー
【解説文を送って下さった方】野澤和弘先生
一般社団法人スローコミュニケーション代表
植草学園大学副学長
熱き希い(ねがい)に活きる人、幾とせ重ねていまもなお……。「手をつなぐ母の歌」は各地にある知的障害者の親の会(育成会)で歌い継がれてきた。日本の知的障害者の福祉は、戦後の焼け跡から3人の母が手を取り合って立ち上がったところに始まるとされる。
今はどの地域も会員の高齢化や減少が続いているが、福祉施策を議論する厚生労働省の検討会などでは、相変わらず育成会のトップが知的障害者福祉の代表の席を確保している。
生まれたときから、あるいは幼いころから障害のある本人と一緒に育ち、濃密な関係であるはずのきょうだい(兄弟姉妹)がこうした場面で前面に出ることはまずない。障害者を扱った映画や小説でも「感動ドラマ」の主役はいつも「熱き希いに活きる」お母さんである。
きょうだいと言えば、障害のある弟ばかりに母の愛情が注がれるのを寂しく思う姉(映画「ワンダー」)、苦労する母親をわきから支える弟(漫画「だいすき!!」)のような役柄ばかりだ。障害児と親の悲喜劇を弟の立場で斜めから描いた「あほやけど、ノリオ」という単行本(露の団六著)もあるが、きょうだいそのものが観察や分析の対象(主役)になることはほとんどない。
というようなことをつらつら考えると、「僕とオトウト」という映画は髙木佑透監督が、障害のある弟を持った「自分」に焦点を絞り切ろうと踏ん張っている気持ちが妙に伝わってくる。現役の大学生が障害のある妹と自分を含めた家族にカメラを向けた映画としては「ちずる」(赤﨑正和監督)が先駆けではあるが、自分の内面にあるものを追いつめていく“自覚された切実感”が「僕とオトウト」は際立っている。それは髙木監督が京都大学大学院在学中、障害当事者を招いて学生たちと対話するゼミを運営する学生の中心だったこととも重なる。
「障害者のリアルに迫る」という自主ゼミが東京大学で始まったのは2014年。その後、京都大、早稲田大、上智大などへも広がっているが、どの大学のゼミも学生たちが障害者を通して自分自身を見つめ、自分のアイデンティティーを必死に探そうとしているのを感じたりする。それまで障害者とは縁がなかった学生も多い。格差が広がる社会の中では恵まれていると言ってもいい若者たちには違いない。が、生きている実感がどこか希薄で息苦しさを感じているような印象も受ける。
「学歴社会の階段を駆け上がって頂点に立った時、その先に何も見えず、うつろな気持ちになった」という学生は、目と耳の不自由な重複障害者が酔っぱらって下ネタを連発するのに衝撃を受けたという。全身が動かないALS(筋萎縮性側索硬化症)の男性が自由に人生を謳歌している言葉に価値観を揺さぶられた学生も多い。
青春とは憂鬱なものだ。何でもできるような万能感が消えて現実が見えてきたとき、自分はいったい何者なのかと問わずにはいられなくなる。何もできないように思っていた障害者が自由の翼で羽ばたいているのを目の当たりにしたとき、その衝撃で価値観が吹き飛ばされる。ぼんやり感じながら目を背けてきたものに、勇気をもって向き合えるようになるのはそのときだ。
重度の知的障害者や自閉症の人は不可解な行動をすることがある。何かしら意味があるに違いないが、自分や周囲の人にとっては危険でやっかいに思える行動も中にはある。険しい目で見られ、社会から隔離された環境での生活を強いられる人も少なくない。そのようなことへの葛藤や確執が髙木家に渦巻いていたことが映画の後半で次第に明らかになってくる。
不思議な行動をする彼らの内面世界の魅力は「熱き希い」だけでは理解できないと思う。彼らの沈黙と笑顔は、知性や芸術性、そして当事者としての自覚的な精神活動がなければ近づけない。そのような新しい視座を「僕とオトウト」は暗示しているように思う。
(編集担当:Linda)
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【上映委員 タレコミ】
荒木君は一年に700本も映画を観ている
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「僕とオトウト」公式サイト https://boku-to-otouto.com
お問い合わせ bokutootouto@gmail.com
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