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言いなりと崇拝は違う。やさしいリーダーだけが両立可能(素敵なリーダーになりたい編_v4-74)

昨日に続き「ピグマリオン」(バーナード・ショー著、小田島 恒志訳、光文社)。こんな表現がある。

「「女のもとへ行くときは、鞭を持って行くがいい」とニーチェは言った。懸命な暴君たちはこの警句を女性に限定せず、男性に対しても鞭を振ってきたが、女性たちよりも、むしろ、鞭の前にひれ伏す男性たちから崇められることになった。もっとも、奴隷根性は男性だけではなく女性にも見られるものだし、自分より強い者を崇めるのに男女は問わない。しかし、強い者を崇拝することと強い者に支配されて言いなりになることは全く別のことである。」

会社だ、組織だ、勘違いのリーダーにありがちだ、と思った。

太古の時代からなのか、歴史的に続いている鞭で組織を統率する、今となっては時代遅れが、現代の会社にはまだ生き残っている。もちろん全ての会社ではないし、上場条件やらコンプラやら、時代の要請で、緩和されている。そう思われがちだが、今でも残っている。

リーダーは、気をつけないと暴君になりがち。支配的で、主従関係・言いなりを求め、できるが当たり前で、できない者を罰したくなる。まさに鞭を部下に向けて振りたくなる。

自分はそう思っていなくても、鞭を振りがち。容易に振ることができるし、自分以外が自制を求めることは原則無い。一番上に存在しているという事実とパワーが、愛情の無い人間関係とあいまって、自由に制限を無くし、低レベルの節度無い自由を発揮してしまう。

強制で、暴力的で、権威と権力と権限を活用し、指示命令の主従関係で部下を動かす。こうでないと動かない、こうある方が正しくスピーディーに動く、と勘違いしている。やさしさではたるむと。やさしさを継続したことも無いのに、やさしさにはチカラが無いと決めつけ、勘違い。強制的・暴力的に力で動かすことに固執する。その結果に満足するが、やさしさに徹した場合の方がより自社として良い結果に至ることを知らない。

そして、従う部下は自分のこの強さを崇拝していると勘違い。勘違いの裸の王様。部下は怖いから従っているだけなのに。これに気づかない。だから、永遠に勘違いが続く。。。事業が失敗するまで。。。自分で自分を変えられない。。。気づかない事も理由だが、気づいても自分の過去を拒絶できないから、違うと押しのける。仮に、変えようと思っても、変える方法がわからないし、変えて良い結果になるかもわからないし、結局、何も変わらない。リーダーシップを学ぼうとしない、とも言える。。。

ジョン・F・ケネディの言葉。
「リーダーシップと学ぶことは、互いに欠くことができないもの」。リーダーは自分のリーダーシップを内省し、客観視し、学び続けなければいけないもの。

ということで、この「ピグマリオン」の表現、「強い者を崇拝することと強い者に支配されて言いなりになることは全く別のことである」はその通り。

そして、組織では、残念なことに、”崇拝”が無く、”支配”だけがはびこる。部下は崇拝(=支持、好意、尊敬、信じる、頼る、甘える、学ぶ)なんてしていない。鞭を持つリーダーを、崇拝なんてしていない、が、行動は言いなりに甘んじる。もちろん心の中では言いなりではない。心の中は反対。納得もしていない。が、行動はしぶしぶする。これがありがち。

「素敵なリーダー」: 
こうではなくて、組織での本来のあるべきリーダー像は、そしてリーダーとフォロワーの関係性は以下であるべきと思う。

鞭を持たないリーダー。やさしいリーダー。鞭無く部下に接する。個性を尊重し、寛容で、挑戦を鼓舞してくれ、希望を運び、機敏な行動を後押ししてくれ、成長を促す。

こんなやさしさを貫ける心の強さ・精神的な強さを部下は崇拝する。でも、部下の行動も心もリーダーの言いなりではない。ただ、結果としては、崇拝(=支持、好意、尊敬、信じる、頼る、甘える、学ぶ)していることもあって大概は言いなりになる。そして、言いなりに動くことに心は納得している。

これがあるべきリーダー像だと思うところです。

こんな素敵なリーダーになりたいですね。


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