9/5(朝)神にある「自由」へと
※『主のよき力に守られて――ボンヘッファー1日1章』(新教出版社、1986)を読んで。
もし、誘惑というものが、私たちに理解することのできない「神の必然」によって来るにしても、次のことは確かである。すなわち、われわれがこの「神の必然」を崇拝したり、ストア哲学者のように諦めて自分を誘惑に引き渡したりすることのないようにと、あらゆる人間の中で最も試みられたキリストこそが勧めているということ、そして、そのかわりに、神が悪魔の言いなりになる「暗い必然」から、神が悪魔を足の下に踏みつける明らかな神の「自由」へわれわれが逃れるように〔中略〕キリストがわれわれを招いているということ、――このことは確かなことである。(441頁)
誘惑とは、「神さまに逆らう」よう、ぼくたちの心と行いが外部から働きかけられることだ。人生の中で、ぼくたちは様々な誘惑を経験する。そして時に誘惑の罠に陥ってしまい、神を悲しませ、他者を傷つけ、自分自身を傷つける。それは、多くのキリスト者が経験していることだ。
だが、誘惑は必ず来るからといって悲観的になることはない。必ず来る誘惑に宿命的なものを感じ、その誘惑に抗うことをやめる必要はない。なぜなら、だれよりも誘惑を経験されたイエスさまが、誘惑という暗い強制的なものから、いのちに満ちあふれた神さまの自由のもとへと、ぼくたちは行くことができると勧めてくださっているからだ。
今日も、祈ろう。私たちを誘惑にあわせないでください。そして、もし誘惑が来たとしても、誘惑に自分を引き渡すことなく、神さまのもとにある自由へと、進むことができるようにと。