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キリスト教は肉欲を否定するか

 カトリック信徒であり小説家の遠藤周作が、『キリスト教文学の世界』(主婦の友社、昭和52年)1巻で、ジュリアン・グリーンの小説「モイラ」についての17頁にわたる解説を書いている。
 印象に残った箇所は、以下のとおりである。

 ――君に少し訊きたいことがあるんだが……。
 ――何のことだい?
 ――キリストは荒野にあって試みられた、それはキリストが飢えていたからだ。キリストの誘惑は飢えだった、肉体の飢え……。
 ――うん、と質問を予感しながら、デーヴィドは頷いた。
 ――それからもう一つの飢え。ねえデーヴィド……キリストはそれを知っていたと思うかい?

 これはジョゼフとデーヴィドの会話です、もう一つの飢え。言うまでもなく、それは肉欲のことです。ジョゼフはこの時、大胆な質問をしました。キリストはそれを知っていたともうかい。はっきり言えばそれはイエスは自分と同じように男として烈しい肉欲に苦しんだかということなのです。この質問を受けたデーヴィドは狼狽します。彼は分からない。そんなことは考えないほうがいいと言います。
 だが考えようと考えまいと、ジョゼフがここに投げた真剣な質問は聖書を読みながら誰もの心を通りすぎた問題でしょう。イエスは人間が味わう肉欲の苦しみを苦しんだことがあるのか。彼のその肉欲をどう考えておられたのか。聖書にはその点について全くといっていいほど触れてはいません。だからこそ肉欲におびえるジョゼフにとって、この疑問は切実なものだったのです。
 僕は何も冒涜しようというのじゃない、とジョゼフはごく低く言った。だがね、キリストはそういうことでもまた苦しんだのだと、そう言われたなら、僕はもっと自分を強く感じられるだろう、そうすれば自分の心に、《彼もまた》とはっきり言えるだろう。

『キリスト教文学の世界』第1巻19頁-20頁

 イエス様が女性に対する淫らな肉欲で苦しまれたのか、という点については、確かに私もあまり考えたことがなかった。だが、遠藤周作がこの解説の最後であるカトリック神父の言葉を紹介しているように、イエス様もまた「肉欲」という方面での誘惑に――陥ることはなかったが、しかしその誘惑を受けて苦しまれただろうことは想像できることである。
 イエス様は、誘惑に陥ることはなかったが、私たち人が感じるすべての誘惑をお受けになり、私たちと同様に苦しんでくださった。このイエス様の苦しみを心に思うのであれば、イエス様が私たちを追い立てるようなお方ではなく、私たちを優しく包み込み、ともに人生を歩んでくださるお方であることが分かるだろう。

 私たちの大祭司〔イエス・キリスト〕は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

へブル人への手紙4章15、16節


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