9/4朝・誘惑という問題
※『主のよき力に守られて――ボンヘッファー1日1章』(新教出版社、1986)を読んで。
「自分の力のみを頼りにして生きようとする人間」にとっては、生活全体が戦いであり、「道徳家」にとっては、すべての瞬間が誘惑の時である。だがキリスト者は〔中略〕「誘惑の時」と、「恵みによって守られ保護されている時」が区別されているのを知っている。(439頁)
キリスト者は、自分の生活をある原則から見ることはできず、ただ生きている神からのみ見ることができるだけである。〔中略〕キリスト者にとっては、生そのものが何であるかということより、神が今、私をどう扱おうとしているかということの方が、はるかに重要なのである。(同頁)
それゆえにこそ、キリスト者は<私はいつも誘惑の中に、いつも試練の中に立っている>とは言わずに、<神が誘惑の時を私の上にもたらさないように>と祈るのである。(440頁)
自分の生活を原理原則から見ることはしない、というボンヘッファーの言葉が印象的だ。神が今ぼくをどう取り扱おうとしておられるのか、それが人間の生にとって決定的な意味があると。神がぼくと親しく関わりを持ってくださるからこそ、ぼくたちは「誘惑にあわせないで」と祈るのであると。
自分自身の力ではなく、自分が定めたルールに生きるのではなく、神との語り合いの中で生きよう。その中で、祈りに生きよう。