衆目にさらされる、私たちの傲慢
※J・グリーン「モイラ」『キリスト教文学の世界』第一巻(主婦の友社、昭和52年)22頁~34頁を読んで。
恐らくあの女は、僕によって救われるために、僕の道の上に現れたのだろう。(26頁)
《僕が助けてやろう、と彼は思った。あの女が救われるよう僕が助けてやろう。》そして急激な熱狂の中に捕えられて、彼はミセス・デアから屈辱の涙や、約束や、真の後悔や、また恐らくは彼女の冒した罪咎の、公式な告白さえも引き出している光景を、それが嘗て本当にあったことのように、まざまざと眼の前に見るのだった。何という勝利だろう!(28頁)
主人公のジョゼフの思いと似たような心を、クリスチャンであれば誰しもが持ったことがあると思う。私たちが地の塩・世の光として主の恵みをこの地上に照らすのは、そして福音を携え人々のもとに向かうのは、イエス様によって与えられたクリスチャンの使命だからである。
だが、主人公ジョゼフの思いに、多くのクリスチャンは不協和音を感じるだろう。そこに、罪人としてともに主の十字架の前に膝を折る――あの、「罪人としての連帯」を感じられないからである。
ジョゼフの姿は、ともすれば傲慢に陥りかねない私たち信仰者の姿を、白日のもとに照らし出している。