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それでいいではないか

もう一度書くことを再開するにあたって、この話題を置いて他にないと思う。

最近Xで流れてきて、心に響いた詩がある。

「咲いたら花だった 吹いたら風だった それでいいではないか」

大正から昭和にかけてご活躍された詩人、高橋元吉さんの『なにもそうかたを…』の一節だ。

咲いたら花だった、…そんなことが本当にあるだろうか?
一般的には、これこれこういう花だろう、と思って育てるわけで。
なんなら、事前に色や形まで想像がついているはずだ。
咲いたらチューリップだった、これならまだ納得はいくが、咲いたら花だった、じゃあ何を期待して、一体どうなると思って咲かせてみたのだろう。

これが愛なのだよ、諸君。
咲けばなんでもいいし、咲かなかったとしても別にいい、ただあるがままにそこに在ればいい、何も求めず待たず、ただ寄り添っていたい、これは稀有な愛の心といえるだろうね。

…そんなことが本当にあるだろうか?
ここで重要なのは、最後に丸くおさめる、「それでいいではないか」。
つまりはこの一言だ。
もし、「咲いたら花だった なんかやだった」。
こんな詩であればがっかりしてしまう。
こんなやつは、花も好きじゃなければ、きっと世界の美しさを感じられない憐れな心持ちに違いない。

「それでいいではないか」
深い愛を感じるから、私はこの詩に感動する。
「あなたならすべてゆるせる」
まるで一人の人をとおして、この世界を愛するような。

ときに、「屋烏の愛」という言葉がある。
愛しい人のすべてが愛しい、住む部屋も、家も、屋根に止まっているカラスさえも。
…そんなことが本当にあるだろうか?
一度考えてみたことがある。
愛する人間の、姿が全く別人になったら、性格が変わったら?
動けなくなり、話せなくなり、死んでしまい、骨になったらどうだろうか?
このすべてに疑いなく、「愛している」と答えるなら、極論、世界のすべてを愛していることにならないだろうか、と。

…そんなことが本当にあるだろうか?
愛ってなんやろ。
話を戻すと、私の答えは結局、「それでいいではないか」。
この一言に尽きると思う。
愛は、伝えるものだ。
大切な人に伝える、「愛している、例えあなたが何であっても」、なんと保証の無い不確かで脆弱な言葉だろう。
しかし、この一言を言える心づもりをいつでも持っておくこと、この気持ちは紛れもない愛ではないのか。

恋人であれ、友人であれ、大切な人に対しては、
「咲いたら花だった 吹いたら風だった それでいいではないか」。
のらりくらりと、その存在を信頼を持って受け止めること、いずれは自分に対しても、そんな人でありたい、ただひたむきに愛する人でありたいのだ。

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