夫に代わって弁当を作ることになった
夫が腕を骨折した。
我が家の家事全般を主に担っているのは夫だ。
結婚当初は夫も職場からの帰りが遅く、私も自宅から5分のところに勤めていた。必然的に私が家事育児を多く負担していた。
しかしその後お互いに環境が変わった。
私は通勤に1時間ほどかかるようになり、自宅で仕事するようになった夫が自然と家事をするようになった。
4月から高校に通い出した娘の弁当を作っているのも夫である。
夫の怪我は思いがけず重傷でまさかの手術となり2週間ほど入院することになった。
娘の学校にも購買があるし、そこらじゅうにコンビニもスーパーもある。
2週間それで凌いでもいいが、経済的にはもちろんだが、出来れば“母の”弁当を持たせたい。
夕飯は息子が飲食店バイトの経験を生かして作ってくれることになった。しかし朝の彼には期待できない。
彼の起床はいつも出かける10分前だ。
自分の朝食さえ取る余裕がない。
弁当のことを考えて夕飯の献立を組み立てる力も、彼にはまだない。
朝晩犬の散歩の必要があるので時間がない。しかし期間限定ではあるし、息子には自由に夕食作りを頑張って貰い、弁当は無理のない程度になるべく母の手作りを持たせることを目標とすることにした。
目指すは簡単で美味しいお弁当。
そうとなれば、初日は簡単にスープとサンドイッチ弁当だ。
最初から飛ばしてはいけない。
自分がよく作る、安定のメニューのサンドイッチを2種類作る。
ハムとチーズとキュウリを挟んだものと、タマゴサンドだ。
これは私が高校時代にパン屋で買ってよく食べていたごく普通のサンドイッチを再現したものだ。
パンにバターを塗り、ハム、キュウリ、スライスチーズの順に乗せる。
キュウリの歯応えとハムとチーズの塩味と旨味、時間の経過でチーズが少し溶け、口のなかで絶妙なハーモニーを奏でる。このサンドイッチは娘もお気に入りだ。
タマゴサンドは潰したゆで卵に、少量の玉ねぎの極細かなみじん切り、マヨネーズ、塩コショウをを加えて混ぜ、サラダ菜を置いたパンにたっぷりと挟む。忘れずにパセリも散らす。
サンドイッチはラップに包んだまま弁当箱の大きさに合わせて切り、かわいいクッキングペーパーに包む。
前日丁寧に野菜を賽の目に切り揃えて作っておいたミネストローネを十分に温めたスープジャーに注ぐ。
“渾身の” “極普通のサンドイッチ弁当”は、残念ながら矯正中の歯が痛くてキュウリを噛むのが辛かったと娘は少し残した。
タマゴサンドとスープは食べられたようだ。
では、と翌日は食べやすい3色弁当とする。
美智子さまが作られていたという話を聞き、子供たちに3色弁当を作ると、私の中で良い母っぽいイメージがありちょっと気分があがるのだ。
鶏そぼろをみりん、酒、しょうゆなどで程よく煮る。炒り卵を作り、緑はインゲンを入れたかったがなかったので、そうだ、とブロッコリーを細かくして3色をきれいに配置する。
卵がかぶるが、娘がどうしてもというので卵焼きも作った。
しかし私の卵焼きはまだまだだとダメ出しをくらう。
リクエストしておきながら酷い話だがこれは私も認めざるを得ない事実である。
夫の卵愛は深い。夫が作る卵焼きはいつだって、ふわっとジューシー、家族一同唸る旨さなのだ。
ならば!ということで卵焼きのリベンジを図るべく次はオムライス弁当だ。
といっても簡単に、ソーセージと玉ねぎに、ミックスベジタブルが大活躍。
オムライスの付け合わせはチキンソテーにする。
少量のガーリックと砂糖や塩コショウを鶏モモ肉に刷り込む。
それをバターでこんがりと焼き、作り置いてあったラタトゥイユを添えた。これもシンプルにオリーブオイルと塩コショウのみで味付けしたものだ。
鶏肉はいつもグリム童話の”賢いグレーテル”さながらにじっくり焼く。
グレーテルは羽をむしってバターを塗りながら丸焼きにし、焦げただの、味見だのと言いながら2羽ペロリとたいらげてしまう。
雰囲気が空恐ろしく、しかしその鶏が旨そうで、鶏肉を焼くたびに思い出す。
本のように丸鶏を焼くのはハードルが高いが、皮をこんがりパリッと焼けば、塩コショウのみでも十分に美味しい。ましてやそこに禁断のバターを使うのだ。女子高生の胃袋も鷲掴み間違いなしである。
娘もママのお弁当は丁寧だと褒めてくれた。ずっと夫作の弁当だったので、気分も変わり、何が入っているか楽しみだとも言う。
確かに丁寧さにおいてだけは夫の卵焼きに引けを取らないだろう。何しろ簡単なメニューだというのに2時間もかけて作っているのだから。
さらに私は娘の好みも野菜の食べさせ方も熟知している。
‘野菜は小さく’ ‘全体にかわいく美しく’
要領が悪いことは否めないが、私は今回、娘のお弁当の歴史に爪痕を残すべく、粛々と作業を進める。
さて、間に購買も挟みつつ、簡単で娘が好きな“うどん弁当”も作ってみた。
以前夫が“肉汁うどん弁当”を作ったことがあった。私にも作ってくれ、大変美味しくいただいた。
もちろん娘も大満足で美味しかったと言っていた。
しかし私は知っている。
娘は汁に凝ったうどんよりも、シンプルにうどんをただのめんつゆで食べる方が好きだと言うことを!
肉汁うどんは娘には少々くどいのだ。
冷凍うどんは茹でてほぐし胡麻油を少し滴しておく。
つゆは希釈しためんつゆを氷と共にスープジャーに入れる。
さて、問題は付け合わせだ。
素うどん大好きな娘が「うどんだけでいい」と言っていたが、それではさすがに喜びが足りない。
そうだ、先日娘が食べたいと言っていた”豚しゃぶ”がいい。
鍋に酒と砂糖を少しいれ、しっかり火が通り、尚且つ豚肉が固くならないよう、細心の注意を払って温度管理をし調理する。
シャキシャキのレタスをちぎり、冷ました豚肉をどっさりと乗せる。
残念ながら大根おろしは臭くなるので入れない方がいいと知った。コンビニ弁当によくついている大根おろしは添加物満載なのだろう。
せめてもの野菜と彩にプチトマトとブロッコリースプラウトをたっぷり乗せた。
さすがにこれには時間がかからない。
次はサラダうどん弁当もいいかもしれない。
うまかった!!
さいこう!
という娘に母はガッツポーズである。
弁当を作るかパスするか、悩んだ日の挙げ句は”基本のおにぎり弁当”にすることにした。
鮭とツナマヨおにぎりと卵焼き。揚げ物は夫がよく入れていたはずなので今回はパス。
この季節の弁当のおにぎりは素手では握れないから塩梅が難しい。
私は眼を凝らしながら慎重に塩をつけていく。
最近のIHは優秀なので、鮭の焼き加減は完璧だ。
握り加減も強すぎず、弱すぎず。
きっと三角が美しいと娘もほめてくれるだろう。
この日は時間がいつも以上になかったので、おにぎりのお供は冷凍庫にあった焼売とイツメンのトマトとブロッコリーと卵焼きだ。
いつもおにぎりの塩加減は良かったか、おかずが少なすぎやしないか、心配で仕方ない。
しかし娘は全部美味しい美味しいと食べてくれる。
息子の夕食がハンバーグだった日には、種を残してもらい、ピーマンの肉詰め弁当をつくった。
挽き肉の火の通り加減には気を使う。よく焼かなければ…と火を弱めてじっくり焼く…
いや、まだ心配だ、とさらに念入りに焼く。
そして、ピーマンの肉詰めは見事に真っ黒に焦げた。
しばし時が止まる。
私の頭の中でカチコチと秒針の音がする。
1. 失敗したので弁当なし→購買
2. せっかく作ったのだから、焦げはご愛敬→このまま持たせる
んんんん!・・・・・・2だ!!
素早くケチャップで黒い焦げを美しくコーティングする。
小分けにして作り置いたグラタンも入れ、イツメンのトマトの赤も効いている。焦げに気づかなければ美味しそうだ。
しれっと渡したのだが、その日先に家を出た私に、娘からメッセージが来た。
「お弁当忘れた!!」
バレたのかと思った…よかった
いや、良くない!
これは私もそうだが、恐らく娘にとってもショックだったことだろう。
ただの弁当ではない。4時起きで作った弁当なのだ!
私はせっかく夫に作ってもらった弁当を何度か家に置き忘れたことを、病院にいる夫に向かい、心の中で深く詫びた。
「大丈夫。俺が後で食べるから」
夫は決して「早起きしてせっかく作ったのに!」とは言わない。
ふふん。
しかし悪いことは出来ない。
焦げたものを食べさせようとした私を神は見ていらしたのか。
気を取り直し、翌日は実家からもらったインゲンをニンジンと共に豚バラで巻いて”肉巻き弁当”を作る。
さつまいもをデザート風に甘めに味つけしたり、作り置きの冷凍グラタンを焼いたりしているとおにぎりを作る時間がなくなってしまった。
フリカケを買っておけばよかった。
ご飯だけ詰めるとなんだか寂しいので、苦肉の策で普段娘が食べない梅干しを乗せてみた。
まあ食べなくても腐敗防止だ。
すると以外にも娘は気に入ったようだ。
私もある時から梅干しの旨さを知ったのだ。
共有出来ることが増えるのは嬉しい限りだ。
あっというまの2週間。
私は毎日洗濯や犬の散歩で眠くてしかたなかった。
と同時に弁当作りの時間、私は娘のことを考えて楽しくてしかたなかった。
絶対に食べないだろうな、と思いながらきのこのマリネを入れたり、やっぱり残してきた娘にそれでもしつこく翌日もご飯に海苔を切り抜いたメッセージ付きできのこを入れたり…
キノコヲタベロ!
(そこには時間をかける母心)
弁当箱を開けときにどんな顔をするだろうか。
嫌な顔をするのか、友達と笑っているだろうか。
弁当をSNSであげる人の気持ちもわかる気がしてきた。
夫の退院日、私は甘いものが大好きな夫のために、何かスイーツを作ろうと思い立った。
完熟バナナがあったので、生クリームを買ってきてセミフレッドを作ることにした。チョコや夫の好きなナッツもふんだんに入れよう。
生クリームを泡立てていると娘がやってきた。
なに作ってるの?
”チョコバナナアイス”だよ
娘の口元に溶け掛けのバナナや生クリームを差し出す。先の“グレーテル”もそうだが、味見の背徳感は旨さが3割増しだ。
そういえば私が子供の頃にもこんなことがあった。母は何か作ろうとしたのか、ただ生クリームを泡立ててみたのかわからないが、そのまま冷凍庫に入れて完全に凍らせてしまったらしい。「アイスになっちゃった」と言って私に一口食べさせてくれた。
“美味しい”と言った私に、生クリームを凍らせたらアイスになるんだねと言った母。
いや、凍った生クリームでしょ。でも美味しいかも。このままコーヒーに乗せたら美味しいんじゃない?という会話と、笑った母の顔を思い出す。
母と同じように、娘に生クリームを食べさせている自分がいる。
母は私たちにどんなものを食べさせようと思って生クリームを泡立てたのだろうか。
娘と時間や経験を共有することは、母にとってもこんな風に幸せなことだっただろうか。
◇◇◇
その昔甥っ子の運動会にサンドイッチを持っていった。
この時とばかりに、私は”特別な卵サンド”を作った。
娘に作ったのとは違う卵サンドだ。
それは甥っ子のためではなく、妹のための卵サンド。
私や妹にとっては母の味だ。
溶いた卵を、所謂スクランブルエッグからいり卵の中間ほどにフライパンでざっと焼き、適量のマヨネーズを投入したのち
おもむろにパンにはさんだものである。
卵サンドは一般的にはゆで卵で作るのだろうが、時間に追われる母の料理はとにかく早い。
本当の3分間クッキングである。
「うっわ、なつかし~!」
妹も涙しながら食していた。
私たち兄妹の小中学校は給食があったし、高校では学食や購買で済ませていた。
したがって母が作るお弁当はそれこそ、時々、たまに、食べるものだった。
にもかかわらず、そのたまに食べる弁当は常に色に乏しかった。
私がいつも黄色か茶色だったと嘆くと兄は、自分は茶色のみだった。と言い、妹が私はおかずが鮭だけだった時あるよ!と言う。
すかさず兄が、じゃあ2色(皮と身)あるな!いいよな、オレだけ1色かよ。
とニヤニヤしながら言う。
今になっては笑えるが、思春期の子供たちにとっては大問題であった。
母はあまり料理がうまくなかった。
彩やバランスを考える余裕もなかった。
美味しい、と言うと平気で1週間毎日同じものを出した。
そんなある日の妹のお弁当は、先ほどのご飯の上に鮭が1切れどーんと乗っている今でいうところの”ハードコア弁当”だった。
母には常に余裕がない。
後から弁当を学校に届けることも何度かあった。
その時の妹の弁当も、熱々のご飯を入れて焼けた鮭を乗せたところでもう出る時間だからすぐ蓋を閉めたのだろう。
ご飯が熱いうちに蓋を閉めると内部の気圧が下がり、真空状態になる。
昼になり、妹が開かなくなった弁当箱に苦戦していると
クラスの男子が、あけてやるよ!と真空状態の弁当箱のフタに手をかけた。
そして彼はやり遂げたのだが、その時に勢い余って中身の鮭がポーンととんだ。
飛んだ鮭と残された白いごはん。
え、これだけ?
とみんなあっけにとられた。
そもそも妹は末っ子独特のあっけらかんとしたキャラである。
自分で開けていれば、みてよこれ!と友達に言い、笑いが取れたかもしれない。
そもそも自分の弁当が”ハードコア”だと知っていれば意地でも自分であけただろう。
予想外のことにその場に立ち尽くす妹に、あまりに不憫だと思ったのか当の男子が
「俺もおかずが缶詰だけの時とかあるよ」
とフォローしてくれたのだそうだ。
海外に少しの間滞在していた時に、日本に帰ったら何を食べたいかと聞かれた。
”鯖の塩焼き”と答えた私に手抜き料理ねと言った人がいた。
当時私はまだ独身で住所は実家にあったので帰ったら母が鯖を焼いてくれるだろう。
以前から母はよく鯖を焼いていた。
そうだよ、簡単だよ。焼くだけだからね。
(焼き魚のハードルについては人それぞれなのだが)
私は焼き魚を手抜き料理と言われて戸惑ってしまった。
当然母は父が喜ぶから焼き魚を良く出していたのだ。
我が家で焼き魚が出る時は父は必ず大根おろしも所望した。
父は自分が欲しいと思ったものがなければ母をなじる。酷ければ激高する。
父の要望に応えることは大変な労力である。
大根おろしに限ったことではない。
そんな我が家の食卓にいかにして“手抜き料理”が上ったのか、その人は知らないだろう。
母は父の横暴に耐え、仕事もし、家事も育児も、例え人から十分に見えなかったとしても、彼女のキャパ以上にこなしていたのだ。
もちろんもっと出来る人もいるだろう。
私や息子の食への情熱や拘りを鑑みるに、母には食に対する興味もさほどなかったのだろう。
もしかしたら、自分のこと、夫のことで手一杯で子供たちへの興味も限られたものだったかもしれない。
様々な思い出と切なさとが共に、何か満たされなかった痛みとなって私の心の底に横たわっている。
しかし今になって思えば、愛情がなかったわけでもない。“そこそこの愛”があった。そして私たちは“そこそこに育った”
母は限られた時間で、毎日ちゃんと食事を提供したのだ。
なるべく好きなものも出そうとした。
それが“簡単な”料理だったとしたらそれはまさしく合理的だったということではないだろうか。
今私が当時の母の友達なら、何というだろうか。
「そこそこでいいよ、大丈夫、子供はちゃんと育つよ」
「でも夫の事はもうちょっとなんとかすべきかもね」
母に余裕があったなら、もっとたくさんのことを共有できたかもしれない。
もっとたくさんの母の一面を知ることができたかもしれない。
私たちが子供のころの記憶を、もっと多くの事を幸せなものとして思い出すことができたかもしれない。
その後旅先から実家に戻った私は、塩サバが食べたいとリクエストし、母は喜んで鯖を焼いてくれた。
大根おろしももちろん添えられていた。
それはそれは美味しい鯖の塩焼きであった。
“美味しい”
そう私が言うと母も嬉しそうだった。
そうして私は1週間、鯖を食べ続けた。
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