罰するはずが罰される【日曜礼拝】
《はじめに》
華陽教会の日曜礼拝のメッセージ部分のみをUPしています。購入しなくても全文読めます。
《聖 書》 エレミヤ書23:1〜6、ヨハネによる福音書18:33〜40
日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。
《メッセージ》
来週から、キリストの誕生を記念する、クリスマスの準備をしつつ、イエス様が、再び来られる時を待ち望む「アドヴェント」に入ります。救い主が、再びこの世に来られる日「再臨の日」は、「終わりの日」や「裁きの日」とも呼ばれますが、それはまさに、神の子が再来する日に、この世界が終わりを迎え、全ての悪が正されて、完成した神の国へ迎えられることを意味します。
「終わりの日」や「終末の日」と聞くと、どうしても、今の世界が滅ぼされ、失われていく、ネガティブなイメージが浮かびます。しかし本来は、長い間、耕してきた畑から、作物を抜いて、収穫を得る日のように、畑での仕事を終えて、みんなで実りを分かち合い、喜びを共にする、恵みの時が訪れる……という良い知らせのはずなんです。
問題は、その日に恵みを得られる者……永遠の命を与えられ、神の国へと受け入れられ、救いにあずかる者たちと、永遠の命を受けられず、神の国から締め出され、滅びに定められる者たち……どちらか2つに分けられる、という裁きの記述が、度々、聖書の中に見られることです。
最初に読んだエレミヤ書23章に出てくる預言にも、主の日に「裁かれる者」と「救われる者」が出てきました。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」「わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる」
ここには、神様が、平和をもたらす新たな王を遣わして、暴力や不正を行う者を裁き、人々に正義と恵みの業を行うことが記されています。神様が遣わすまことの王、まことの牧者についていく者は救われて、私利私欲に振り回され、群れを散らして、本当の牧者に従わない者は、暗闇の中に追いやられる……そのような言葉も出てきます。
そして、預言者たちが告げている、群れを養う牧者こそ、救い主、イエス・キリストのことに他ならないと、新約聖書も教えています。この世の悪を打ち滅ぼし、不義や不正に手を染める、罪人たちを追い出して、正義と公正を実現する、神の支配を完成させる、新たな王とはこの方だ!……と、色んな箇所が伝えています。
しかし、こうした言葉が目に入ると、だんだん怖くなってくるかもしれません。私自身は、群れを養うまことの牧者に、呼び集められる人間なのか? それとも、群れを混乱させ、迷惑をかけた者として、追放される人間なのか? また、イエス様を信じていない自分の子ども、親や兄弟、大切な友人たちは、本当の牧者を知らない、まことの王を選べない、やがて滅ぼされる人間なのか?
考え始めると、恐ろしくなります。イエス様自身が残したとされる言葉の中にも、毒麦のたとえや、実のならないイチジクのたとえで、炎の中に投げ込まれる、裁かれる人たちが出てきます。今は、何も気にせず、手に入るものを飲み食いできても、終わりの日に、神様から罰されて、暗いところへ投げ落とされたらどうしよう?
ある人にとっては、世の終わりに再び来られる神の子が、自分の生き方を監視して、悪かったことを問い詰めて「神の国には入れてやらない」「同じ食卓には着かせない」と暗闇への追放を宣言する、厳しく怖い存在として、刷り込まれているかもしれません。この方は、自分を罰するために来るんじゃないか? 排除するために来るんじゃないか? と。
しかし、「悪い行いを罰する」はずの救い主は、2千年前、反対に自分が「罰される者」として、法廷で裁かれ、鞭に打たれ、十字架につけられていきました。後から読んだ、ヨハネによる福音書18章には、群れを養う使命を果たさず、追い払うばかりで顧みることをしなかった祭司長やファリサイ派の方ではなく、彼らを裁きに来たはずの王なる主が、どんな悪いことをしたのか問い詰められています。
本来、逆のはずです。群れを養う牧者として遣わされたイエス様が、群れのみんなを顧みない彼らのことを問い詰めて、裁き、罰するのが正しいはずです。しかし、イエス様は単純に、彼らを罰するために来られたのではありません。群れを混乱させる者も、過ちを犯した者も、群れの一員として帰ってくるよう、変化を促し続けます。
むしろ、自分について来ない者たちが、自分を王だと呼べるように、死を超えて足掻き続けます。被告として引き出されたイエス様と、イエス様を尋問するピラトを見ていてもそのやりとりはたいへん奇妙です。
ピラトが「お前がユダヤ人の王なのか?」と問いかけると、イエス様は「わたしの国は、この世には属していない」と答え、「それでは、やはり王なのか?」と問いかけると、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と返される……ピラトがイエス様に「わたしは王じゃない」と答えさせようとする一方、イエス様はピラトに「あなたはわたしの王」と告白させようとしています。
ピラトもまた、イスラエルを支配する異邦人で、ユダヤ人を苦しめている、群れを顧みない牧者の一人でしたが、イエス様から罰されるどころか、キリストを信じる群れとして仲間に加わるよう促されていました。それは、イエス様を見捨てた弟子たちも同じです。彼らも「あなたはわたしを愛しているか?」とイエス様に問われ、「わたしに従いなさい」と呼ばれ続けた者たちでした。死によって離されてなお、再会して呼びかけられます。
再臨の日に訪れるイエス様も、悪いところを問いただして、あなたを罰するために、滅ぼすために、来られるのではありません。あなたを自分の群れに迎えて、神の国へと招くために、「わたしの主、わたしの神よ」と告白するまで、出会いにくるんです。あなたを焼き捨てるためではなく、あなたが豊かな実をつけるよう、拒絶されても、再会してくださるんです。
今日は、そんな神様が、私たちにもたらす良い恵みに感謝して、収穫感謝礼拝を行っています。再臨の日に、捨てられないか、罰されないか、滅ぼされないか不安な方は、自ら一粒の種となって、あなたに実りを与えられる、あなたを新しく変えられる、あなたをご自分の者と呼ばれ続ける、イエス様に信頼して、安心して、喜びを分かち合いましょう。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。アーメン。
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